2018年12月、大阪府堺市にある百舌鳥古墳群最大の前方後円墳である大山古墳とその陪塚をいくつか訪ねました。すぐ目の前にある堺市博物館を先に見学して少しインプットしてから時間の許す限り観察しました。といってもあまりに大きいので前方部手前の道路を行ったり来たりしただけに終わったのですが、、、
大山古墳あるいは大仙陵古墳と一般的に呼ばれるようになったのは最近のことではないでしょうか。大阪に生まれ育った私は子どもの頃から何の疑いもなく仁徳天皇陵と呼んでいたし、学校でもそのように教わりました。しかし被葬者が仁徳天皇と特定できないばかりか、そもそも仁徳天皇は実在しなかったという説もあるくらいなので、仁徳天皇陵という名称はあくまで通称で、遺跡名としての大山古墳あるいは大仙陵古墳を用いるのが適切であるということだと思います。ちなみに宮内庁ではここを仁徳天皇陵に治定するとともに記紀の記述をもとに「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」という呼称を用いています。世界最大の古墳で墳丘の全長は486m、堤や濠まで含めた古墳全体の最大長は840mにもなります。現在の濠は三重になっています。
拝所。撮影場所は第2堤、つまり外側の堤の上で、拝所そのものは第1堤の上です。
ボランティアガイドの方が近づいてきて「説明しましょうか」と言ってくれたのでお願いすることにしました。大きな話題となった宮内庁と堺市による共同調査が終わったばかりだったので、そのネタから会話が始まりました。ガイドの方のお名前は木内さん。古墳に詳しく私と同様に機会を見つけては全国の古墳を訪ね歩いているそうです。
拝所からすぐそこに見える調査現場。第1堤の一画です。
2月に発掘調査結果の報告と写真パネルによる展示が行われるようです。
百舌鳥古墳群は南を流れる石津川あるいはその支流の河岸段丘上、もしくは上町台地の南端といった方がいいのでしょうか、いずれにしても平地よりも10mほど高くなったところにあります。この古墳群に限らず多くの古墳群は台地上や段丘上など周囲より一段高いところに造営されることが多く、その理由は諸説あるようですが、ガイドの木内さんのお考えによると、これらの古墳は築造当時は木々はなく葺石で覆われた大きな造営物で、少し見上げるような場所にあると人々に被葬者を崇める気持ちが湧いてくる、だから一段高いところに造るのだとおっしゃいます。一理あるなと思うのですが、私は少し違う考えをしています。というのも、宮崎県にある西都原古墳群や新田原古墳群なども段丘上にあるのですが、いずれも平地との標高差が数十メートルの急坂を上った高台の上に古墳群が広がっており、平地から古墳は見えないのです。とすると、必ずしも下からどう見えるかを意識したのではなく、逆に上から見下ろすことを意識したのではないでしょうか。そしてもうひとつの理由は、低地に造ると河川が氾濫したときに流されてしまうから。だからできるだけ周囲から高いところに設けようとしたのです。古墳時代前期やさらに遡る弥生時代には少し高いどころか、山上や丘陵上に築かれた古墳や墳丘墓がたくさんあります。
古墳右側の濠と前方部の右隅。
古墳左側の濠と前方部の左隅。
前方部前面の濠。左側から。
世界最大とあって一周すると3km近くあるので今回はこのように前方部の前面のみの見学です。そして前方部の手前に並ぶ陪塚も見てきました。
前方部手前のもっとも右側にあるのが収塚(おさめづか)古墳。
5世紀中頃の築造で全長59mの帆立貝形古墳です。
次に大山古墳の軸線上にある孫太夫山(まごだゆうやま)古墳。
これも5世紀中頃築造の帆立貝式古墳で、全長は65mです。
そして竜佐山古墳。
5世紀後半から末の築造とされる全長60mの帆立貝式古墳。
前方部手前の左端にあるのが狐山古墳。
5世紀後半の築造とされる径30mの円墳。
狐山古墳から少しだけ前方部側に寄ったところの銅亀山(どうかめやま)古墳。
5世紀中頃の築造で、一辺26mの方墳。
最後に収塚古墳から少し離れたところにある長塚古墳。
5世紀中頃から後半の築造とされる全長106.4mの前方後円墳。
これは他の陪塚と比べると規模が大きくて墳形も整っていることから、大山古墳の陪塚ではなくて単独の古墳とされ、国史跡になっています。ただ、実際に歩いてみると大山古墳からの距離が他の陪塚とあまり変わらないことや、大きさも確かに100mを越える全長であるものの、孫太夫山古墳の65mと比べると圧倒的に大きいわけではないので、これも陪塚と考えるのが自然なように思いました。
それから、ガイドの木内さんはこの古墳編年表を見せながら、和泉の百舌鳥古墳群と河内の古市古墳群で交互に古墳が大きくなっていき、この大山古墳を最後にこれよりも大きな古墳が築かれなくなった、ということを説明してくれました。わずか10キロほどの至近距離に同時期に存在したふたつの勢力が競い合っていたということになるのでしょうか。木内さんはこの質問には答えてくれませんでした。
この編年表は近つ飛鳥博物館の前館長の白石太一郎氏によるものです。
この表を見ていて大きな疑問が湧きました。表中の百舌鳥古墳群にある上石津ミサンザイ古墳は宮内庁が履中天皇陵に治定している古墳です。それが仁徳天皇陵に治定される大仙陵よりも先に築かれたことになっているのです。応神→仁徳→履中→反正→允恭、、、おかしいですね。考古学的にはこの大山古墳は仁徳天皇陵と言えないのかもしれません。そういえば学術的には今城塚古墳が継体天皇陵に治定されるべきなのに、時代が合わない太田茶臼山古墳が継体陵に治定されているというケースもありました。
それともうひとつ。現在は三重の濠になっているのですが、三重目の濠は明治時代になってから設けられたとのこと。江戸時代の「舳松領絵図(へまつりょうえず)」に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれていたことが根拠とされています。しかし、木内さんの話では、三重目の濠を掘った時に埴輪などの遺物がほとんど出なかったので、やはりもとから二重の濠であったのではないかと言われているそうです。
舳松領絵図(堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブより)
木内さんのおかげで新たな気づきを得ることができ、そして楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。帰り間際に私の本を宣伝しておいたのですが、読んでくれたでしょうか。
この大山古墳の拝所と眼の前にある堺市博物館は、最寄り駅であるJR阪和線の百舌鳥駅から徒歩で数分のところです。
世界遺産に登録されるといいのにな。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
大山古墳あるいは大仙陵古墳と一般的に呼ばれるようになったのは最近のことではないでしょうか。大阪に生まれ育った私は子どもの頃から何の疑いもなく仁徳天皇陵と呼んでいたし、学校でもそのように教わりました。しかし被葬者が仁徳天皇と特定できないばかりか、そもそも仁徳天皇は実在しなかったという説もあるくらいなので、仁徳天皇陵という名称はあくまで通称で、遺跡名としての大山古墳あるいは大仙陵古墳を用いるのが適切であるということだと思います。ちなみに宮内庁ではここを仁徳天皇陵に治定するとともに記紀の記述をもとに「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」という呼称を用いています。世界最大の古墳で墳丘の全長は486m、堤や濠まで含めた古墳全体の最大長は840mにもなります。現在の濠は三重になっています。
拝所。撮影場所は第2堤、つまり外側の堤の上で、拝所そのものは第1堤の上です。
ボランティアガイドの方が近づいてきて「説明しましょうか」と言ってくれたのでお願いすることにしました。大きな話題となった宮内庁と堺市による共同調査が終わったばかりだったので、そのネタから会話が始まりました。ガイドの方のお名前は木内さん。古墳に詳しく私と同様に機会を見つけては全国の古墳を訪ね歩いているそうです。
拝所からすぐそこに見える調査現場。第1堤の一画です。
2月に発掘調査結果の報告と写真パネルによる展示が行われるようです。
百舌鳥古墳群は南を流れる石津川あるいはその支流の河岸段丘上、もしくは上町台地の南端といった方がいいのでしょうか、いずれにしても平地よりも10mほど高くなったところにあります。この古墳群に限らず多くの古墳群は台地上や段丘上など周囲より一段高いところに造営されることが多く、その理由は諸説あるようですが、ガイドの木内さんのお考えによると、これらの古墳は築造当時は木々はなく葺石で覆われた大きな造営物で、少し見上げるような場所にあると人々に被葬者を崇める気持ちが湧いてくる、だから一段高いところに造るのだとおっしゃいます。一理あるなと思うのですが、私は少し違う考えをしています。というのも、宮崎県にある西都原古墳群や新田原古墳群なども段丘上にあるのですが、いずれも平地との標高差が数十メートルの急坂を上った高台の上に古墳群が広がっており、平地から古墳は見えないのです。とすると、必ずしも下からどう見えるかを意識したのではなく、逆に上から見下ろすことを意識したのではないでしょうか。そしてもうひとつの理由は、低地に造ると河川が氾濫したときに流されてしまうから。だからできるだけ周囲から高いところに設けようとしたのです。古墳時代前期やさらに遡る弥生時代には少し高いどころか、山上や丘陵上に築かれた古墳や墳丘墓がたくさんあります。
古墳右側の濠と前方部の右隅。
古墳左側の濠と前方部の左隅。
前方部前面の濠。左側から。
世界最大とあって一周すると3km近くあるので今回はこのように前方部の前面のみの見学です。そして前方部の手前に並ぶ陪塚も見てきました。
前方部手前のもっとも右側にあるのが収塚(おさめづか)古墳。
5世紀中頃の築造で全長59mの帆立貝形古墳です。
次に大山古墳の軸線上にある孫太夫山(まごだゆうやま)古墳。
これも5世紀中頃築造の帆立貝式古墳で、全長は65mです。
そして竜佐山古墳。
5世紀後半から末の築造とされる全長60mの帆立貝式古墳。
前方部手前の左端にあるのが狐山古墳。
5世紀後半の築造とされる径30mの円墳。
狐山古墳から少しだけ前方部側に寄ったところの銅亀山(どうかめやま)古墳。
5世紀中頃の築造で、一辺26mの方墳。
最後に収塚古墳から少し離れたところにある長塚古墳。
5世紀中頃から後半の築造とされる全長106.4mの前方後円墳。
これは他の陪塚と比べると規模が大きくて墳形も整っていることから、大山古墳の陪塚ではなくて単独の古墳とされ、国史跡になっています。ただ、実際に歩いてみると大山古墳からの距離が他の陪塚とあまり変わらないことや、大きさも確かに100mを越える全長であるものの、孫太夫山古墳の65mと比べると圧倒的に大きいわけではないので、これも陪塚と考えるのが自然なように思いました。
それから、ガイドの木内さんはこの古墳編年表を見せながら、和泉の百舌鳥古墳群と河内の古市古墳群で交互に古墳が大きくなっていき、この大山古墳を最後にこれよりも大きな古墳が築かれなくなった、ということを説明してくれました。わずか10キロほどの至近距離に同時期に存在したふたつの勢力が競い合っていたということになるのでしょうか。木内さんはこの質問には答えてくれませんでした。
この編年表は近つ飛鳥博物館の前館長の白石太一郎氏によるものです。
この表を見ていて大きな疑問が湧きました。表中の百舌鳥古墳群にある上石津ミサンザイ古墳は宮内庁が履中天皇陵に治定している古墳です。それが仁徳天皇陵に治定される大仙陵よりも先に築かれたことになっているのです。応神→仁徳→履中→反正→允恭、、、おかしいですね。考古学的にはこの大山古墳は仁徳天皇陵と言えないのかもしれません。そういえば学術的には今城塚古墳が継体天皇陵に治定されるべきなのに、時代が合わない太田茶臼山古墳が継体陵に治定されているというケースもありました。
それともうひとつ。現在は三重の濠になっているのですが、三重目の濠は明治時代になってから設けられたとのこと。江戸時代の「舳松領絵図(へまつりょうえず)」に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれていたことが根拠とされています。しかし、木内さんの話では、三重目の濠を掘った時に埴輪などの遺物がほとんど出なかったので、やはりもとから二重の濠であったのではないかと言われているそうです。
舳松領絵図(堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブより)
木内さんのおかげで新たな気づきを得ることができ、そして楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。帰り間際に私の本を宣伝しておいたのですが、読んでくれたでしょうか。
この大山古墳の拝所と眼の前にある堺市博物館は、最寄り駅であるJR阪和線の百舌鳥駅から徒歩で数分のところです。
世界遺産に登録されるといいのにな。
よみがえる百舌鳥古墳群―失われた古墳群の実像に迫る | |
新泉社 |
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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |