古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

掖上鑵子塚古墳(葛城・纒向ツアー No.14)

2020年01月01日 | 実地踏査・古代史旅
 日本武尊白鳥陵から北東に向かって走ること数分、低い尾根を横切る切り通しを抜けると突然現れるのが掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳。全長が149メートルの大型前方後円墳ですが、航空写真を見ると、前方部の南側に直径50メートルほどの円墳があるために奇麗な前方後円形にならず、ホタテ貝形とも思える中途半端な墳形になっています。 
 古墳を取り囲む田畑は周濠跡だとはっきりわかるような形で並んでいます。車が走る道路がその周りに敷かれ、これも周堤跡を思わせます。



 南葛城地方では238メートルの室宮山古墳に次ぐ規模で、その宮山古墳と同様に墳頂部から様々な形象埴輪が見つかっています。ほかに金銅製帯金具、心葉形垂飾、挂甲小札、琴柱形石製品などの副葬品が検出されていること、5世紀後葉の築造とされていることと合わせて考えると室宮山古墳の被葬者である葛城襲津彦の子、あるいは孫の世代の首長クラスの墓ということになるでしょうか。
 葛城本宗家とすれば嫡男の玉田宿禰、もしくはその子の円大臣ということになります。(玉田宿禰は日本書紀の雄略紀においては子とされるも允恭紀では孫とされています。)
 玉田宿禰は反正天皇の殯を命じられたにもかかわらず、命令に背いて酒宴を催していたことがバレて允恭天皇に誅殺されました。一方の円大臣は眉輪王が父の仇として安康天皇を殺した眉輪王の変において彼を屋敷にかくまった結果、雄略天皇に屋敷を囲まれて眉輪王とともに焼き殺されました。いずれも天皇に殺されるという非業の死を遂げた人物ということになりますが、その結果として葛城の本拠地を少し外れて尾根に囲まれた閉鎖的なところに葬られたという考えが提示されています。

 掖上鑵子塚古墳が誰の墓であるかについては江戸時代以降、次のように様々な考えが出されているようです。

 ・寛政9年(1797年)陵墓志・・・・・・孝安天皇玉手丘上陵。
 ・正徳3年(1713年)和漢三才図会・・・日本武尊白鳥陵。
 ・享和元年(1801年)山陵志・・・・・・武内宿禰墓。
 ・慶応元年(1865年)聖蹟図志・・・・・日本武尊白鳥陵。

 現在、孝安天皇陵や日本武尊白鳥陵は別の古墳に治定されているし、室宮山古墳が武内宿禰の墓という説もあるので、言うたもん勝ちみたいになってます。

古墳脇に立つ説明板。

日本人でさえこの古墳を見に来る人は余程のマニアだと思うのだけど、中国語や韓国語が併記されていることに大きな違和感を感じました。

前方部の縁を北側(左側)から。

右側に見える道路が周堤、その下の田んぼが周濠という感じです。

後円部。


前方部。


 太陽が傾いて夕暮れが迫っているからかもわかりませんが、林に囲まれたこの場所は確かに閉鎖的で何となく空気が澱んでいる感じがしました。何らかの特別の意思をもってここに墓を築いたと言われれば、そんなことはないと否定しにくい空気が漂っていました。

撮影を済ませて車を走らせ、後円部を少し回り込んだところで墳丘の裾に見つけた白い看板のようなもの。


車を停めて周濠跡の畑に降りてあぜ道から撮影しました。

最初の説明板と同じことが書かれていました。

時間があればぐるりと一周したいところでしたが、残された時間があまりありません。最後に行くことにしている新沢千塚古墳群を暗闇の中で見学することだけは避けたいと思い、先を急ぎました。





↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本武尊白鳥陵(葛城・纒向... | トップ | 新沢千塚古墳群(葛城・纒向... »

コメントを投稿

実地踏査・古代史旅」カテゴリの最新記事