■ 古代史研究とはパズル合わせとストーリー化
今回は私が考えている日本建国史における仮説の一部を超ダイジェストで紹介したいと思います。
私が古代史を考えるにあたっては、正史である日本書紀をもとに、古事記や魏志倭人伝などの他の文献や考古学の知見を掛け合わせ、自分なりに最も納得性の高いシナリオを仮説としてまとめていく、というプロセスをとっています。その前提として、古事記や日本書紀の記述はたいそうな装飾や編集、嘘っぽい創作じみた話、神話など明らかに現実的でない話などが並べられているものの、基本的に何らかの事実や史実、あるいは伝承などに基づくものであると考えています。
さて、日本書紀はまず神代巻で国生み、国譲り、天孫降臨など神様の話が語られます。イザナギとイザナミの夫婦神が日本の国土である大八洲国を作り、続いてたくさんの神々を誕生させました。そのたくさんの神々の中で最も重要な神様はアマテラスとスサノオの二人です。アマテラスは天上の高天原にいて、その孫にあたるニニギノミコトを地上に降臨させ、その子孫たちが天孫族として日本国の建設を始め、のちの天皇家につながっていきます。一方のスサノオは気性が荒くて天下を治めるにふさわしくないとされ、天上界から根の国に追放され、天孫族と対立する一族になっていきます。いずれも天上界からやってきたという点では同じです。
縄文時代の終わり頃から弥生時代にかけて、大陸や朝鮮半島から稲作や製鉄など当時の最先端技術を携えて日本列島各地に渡来した様々な集団が土着の縄文人と融合して弥生人になっていった、ということが様々な研究の結果、わかってきました。
中国大陸の江南地方あたりから九州の南部に渡来した集団がアマテラス一族、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれる一族になり、魏志倭人伝では狗奴国と記されました。この狗奴国の王(倭人伝では卑弥弓呼)がカムヤマトイワレヒコ、のちの神武天皇です。
そして朝鮮半島から山陰地方へ渡来した集団がスサノオ一族で、子孫のオオクニヌシが出雲の国土開発(国造り)を行う一方、一族から分かれたスクナヒコナの集団が大和の纒向へ移り、邪馬台国を建国します。この邪馬台国を建国したのが崇神天皇です。(そうです、私は邪馬台国畿内説です。)
大和纒向の邪馬台国はやがてオオクニヌシの出雲(倭人伝では投馬国)や九州北部の各国を従えて倭国という連合国家を形成します。一方の狗奴国は南九州から北上しながら国土開発を続け、ついには北九州の倭国と一戦を交える事態になりました。この戦いを優勢に進めた狗奴国の王イワレヒコは倭国の本丸である邪馬台国への進攻を決意し、九州の日向から瀬戸内海を通過、熊野を経由して大和へ向かいました。これがいわゆる神武東征です。
しかし、日本書紀には神武天皇が大和にあった邪馬台国、すなわち崇神天皇と戦った、なんてことは一言も書いていません。同じ天皇家であり、しかも神武は初代天皇で崇人天皇は第10代天皇。この二人が戦うなんて考えられません。そもそも神武が大和で戦ったのはニギハヤヒだったはず。
大和をめぐる動きについては、私はこんなことを考えています。弥生時代の早い時期に丹後からやってきたニギハヤヒが大和の地を押さえていた。弥生後期後半、出雲からスクナヒコナがやってきて奈良盆地の東の端っこに邪馬台国を開き、のちに崇神天皇と呼ばれるようになった。さらに九州の日向から狗奴国の神武がやってきて、ニギハヤヒを取り込んで奈良盆地の南西部の隅っこに拠点を設けた。3世紀中頃にあたるこの時点で大和には邪馬台国である崇神天皇の政権と神武天皇の政権が並立する状況になった。こうして二人のハツクニシラススメラノミコト(初めて国を治めた天皇)が誕生することになった。
この考えをもとに日本書紀をつぶさに読むと、神武王朝(神武から第9代開化天皇まで)と崇神王朝(崇神から第14代仲哀天皇まで)の間での様々な「せめぎ合い」が見えてくるのです。
記紀の神代から続く歴史の初期段階はそれを裏づける証拠がないために、いろんな人がいろんなことを言っています。邪馬台国も同じです。中国の魏志倭人伝に明確に書いてあるにもかかわらず、その所在について確たる物的証拠がないために何とでも言えてしまうのです。でも、だからこそ古代史は面白い。できるだけたくさんの状況証拠を集めてパズルあわせをしていくと思わぬ考えに行き着き、それを上手く組み立てると意外にも筋の通ったストーリーになる。言い方は適切でないかもわかりませんが、このパズルあわせとストーリーの組み立てがこの上なく楽しい。ほかの人が考えついていないストーリーができたときほど満足感が大きい。そのときはたいがい前述のようなトンデモ説になってるんですが(笑)。
そんな考えで綴ってきたのが私のブログ「古代日本国成立の物語」です。昨年(2016年)の夏から始めて今日(2017年07月26日)現在までで、第11代垂仁天皇までのストーリーを書いてきました。
さて、これまで14回にわたって私なりの古代史の楽しみ方をお伝えしてきましたが、次回をもっていったん最終回にしたいと思います。最終回は、古代史の勉強を単なる自分の趣味に終わらせず、セカンドライフを充実させるために何かできないか、もやもやと妄想していることを書いて終わりにしようと思います。(最終回へつづく)
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今回は私が考えている日本建国史における仮説の一部を超ダイジェストで紹介したいと思います。
私が古代史を考えるにあたっては、正史である日本書紀をもとに、古事記や魏志倭人伝などの他の文献や考古学の知見を掛け合わせ、自分なりに最も納得性の高いシナリオを仮説としてまとめていく、というプロセスをとっています。その前提として、古事記や日本書紀の記述はたいそうな装飾や編集、嘘っぽい創作じみた話、神話など明らかに現実的でない話などが並べられているものの、基本的に何らかの事実や史実、あるいは伝承などに基づくものであると考えています。
さて、日本書紀はまず神代巻で国生み、国譲り、天孫降臨など神様の話が語られます。イザナギとイザナミの夫婦神が日本の国土である大八洲国を作り、続いてたくさんの神々を誕生させました。そのたくさんの神々の中で最も重要な神様はアマテラスとスサノオの二人です。アマテラスは天上の高天原にいて、その孫にあたるニニギノミコトを地上に降臨させ、その子孫たちが天孫族として日本国の建設を始め、のちの天皇家につながっていきます。一方のスサノオは気性が荒くて天下を治めるにふさわしくないとされ、天上界から根の国に追放され、天孫族と対立する一族になっていきます。いずれも天上界からやってきたという点では同じです。
縄文時代の終わり頃から弥生時代にかけて、大陸や朝鮮半島から稲作や製鉄など当時の最先端技術を携えて日本列島各地に渡来した様々な集団が土着の縄文人と融合して弥生人になっていった、ということが様々な研究の結果、わかってきました。
中国大陸の江南地方あたりから九州の南部に渡来した集団がアマテラス一族、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれる一族になり、魏志倭人伝では狗奴国と記されました。この狗奴国の王(倭人伝では卑弥弓呼)がカムヤマトイワレヒコ、のちの神武天皇です。
そして朝鮮半島から山陰地方へ渡来した集団がスサノオ一族で、子孫のオオクニヌシが出雲の国土開発(国造り)を行う一方、一族から分かれたスクナヒコナの集団が大和の纒向へ移り、邪馬台国を建国します。この邪馬台国を建国したのが崇神天皇です。(そうです、私は邪馬台国畿内説です。)
大和纒向の邪馬台国はやがてオオクニヌシの出雲(倭人伝では投馬国)や九州北部の各国を従えて倭国という連合国家を形成します。一方の狗奴国は南九州から北上しながら国土開発を続け、ついには北九州の倭国と一戦を交える事態になりました。この戦いを優勢に進めた狗奴国の王イワレヒコは倭国の本丸である邪馬台国への進攻を決意し、九州の日向から瀬戸内海を通過、熊野を経由して大和へ向かいました。これがいわゆる神武東征です。
しかし、日本書紀には神武天皇が大和にあった邪馬台国、すなわち崇神天皇と戦った、なんてことは一言も書いていません。同じ天皇家であり、しかも神武は初代天皇で崇人天皇は第10代天皇。この二人が戦うなんて考えられません。そもそも神武が大和で戦ったのはニギハヤヒだったはず。
大和をめぐる動きについては、私はこんなことを考えています。弥生時代の早い時期に丹後からやってきたニギハヤヒが大和の地を押さえていた。弥生後期後半、出雲からスクナヒコナがやってきて奈良盆地の東の端っこに邪馬台国を開き、のちに崇神天皇と呼ばれるようになった。さらに九州の日向から狗奴国の神武がやってきて、ニギハヤヒを取り込んで奈良盆地の南西部の隅っこに拠点を設けた。3世紀中頃にあたるこの時点で大和には邪馬台国である崇神天皇の政権と神武天皇の政権が並立する状況になった。こうして二人のハツクニシラススメラノミコト(初めて国を治めた天皇)が誕生することになった。
この考えをもとに日本書紀をつぶさに読むと、神武王朝(神武から第9代開化天皇まで)と崇神王朝(崇神から第14代仲哀天皇まで)の間での様々な「せめぎ合い」が見えてくるのです。
記紀の神代から続く歴史の初期段階はそれを裏づける証拠がないために、いろんな人がいろんなことを言っています。邪馬台国も同じです。中国の魏志倭人伝に明確に書いてあるにもかかわらず、その所在について確たる物的証拠がないために何とでも言えてしまうのです。でも、だからこそ古代史は面白い。できるだけたくさんの状況証拠を集めてパズルあわせをしていくと思わぬ考えに行き着き、それを上手く組み立てると意外にも筋の通ったストーリーになる。言い方は適切でないかもわかりませんが、このパズルあわせとストーリーの組み立てがこの上なく楽しい。ほかの人が考えついていないストーリーができたときほど満足感が大きい。そのときはたいがい前述のようなトンデモ説になってるんですが(笑)。
そんな考えで綴ってきたのが私のブログ「古代日本国成立の物語」です。昨年(2016年)の夏から始めて今日(2017年07月26日)現在までで、第11代垂仁天皇までのストーリーを書いてきました。
さて、これまで14回にわたって私なりの古代史の楽しみ方をお伝えしてきましたが、次回をもっていったん最終回にしたいと思います。最終回は、古代史の勉強を単なる自分の趣味に終わらせず、セカンドライフを充実させるために何かできないか、もやもやと妄想していることを書いて終わりにしようと思います。(最終回へつづく)
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