古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)①

2023年04月29日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月21日から23日まで、いつもの古代史仲間の岡田さん、佐々木さんと一緒に讃岐から阿波をぐるっと巡ってきたのでレポートします。今回は岡田さんの地元、高松を起点にしたので私と佐々木さんは大阪から高速バスで高松に入り、そこからは岡田さんの運転のお世話になりました。



4月21日朝6:45に南海難波の高速バス乗り場からバスに乗り込み、一路高松を目指します。乗車時間は3時間50分、えらい時間がかかるなあと思っていたら、それもそのはず、大阪市内の各所や三宮と途中、あちこちで停車する路線でした。ちなみに料金は片道3800円です。



何はともあれ無事に高松の栗林公園前に到着し、岡田さんの車に乗り替えました。まず最初に目指したのが森広遺跡群で、石田神社遺跡、森広天神遺跡、森広遺跡、加藤遺跡などからなる弥生時代後期を中心とする遺跡群です。40分ほど走って、栴檀川(せんだんがわ)左岸の段丘上に建つ石田神社に到着。ここは平形銅剣3本が出土したところですが、境内にはそれを示す痕跡はなく説明板すら立っていません。






あえて言えば、この祓戸社の碑。「往古よりこの地を禊祓の斎庭と定め、折にふれ祓戸の神々の降神を仰ぎ祭祀が行われてきた」とある。




祓戸の神々とは、大祓祝詞に登場する罪穢れを祓い清める、瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の祓戸四神のこと。あるいは、祝詞に「伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓給ひし時に生り坐せる祓戸大神等」として登場する神々のこと。大祓祝詞については、「蛇神について(前編)」で少し考えたことがあります。

平形銅剣は弥生中期から後期にかけて瀬戸内沿岸で隆盛した祭器です。弥生時代、この場所は平形銅剣を祭器とした祭祀が行われた場所でした。その後、祭祀形態が古墳を舞台とする祭祀に変化していく過程でこの旧い祭器はひっそりと埋められたのでしょう。実は、この神社の境内裏に石田神社古墳群があったのをすっかり忘れていました。

ところで、この石田神社の祭神は弥生時代の祭祀とは関係のない八幡大神、つまり応神天皇でした。

車を石田神社に置いたまま、栴檀川を挟んだ向かいの段丘上にある森広天神遺跡まで歩きます。



鎮守の杜、あるいはもしや古墳か、という眺め。遺跡は川の反対側の少し小高い所にあるようです。小さな木製鳥居をくぐると天満宮の境内が広がり、振り返ると右手にお椀をかぶせたような小山の上に小さな祠が見えます。本当に古墳ではないかと思えてきます。




境内を抜けると、おそらくこちらが正面の参道。その入り口に森広遺跡群の説明板が立っていました。




この森広天神遺跡はなんと8個もの巴形銅器がまとまって出土したところ。そして、8個のうちの3個は福岡県春日市の九州大筑紫地区遺跡群(須玖岡本遺跡近く)で1998年に出土した弥生時代後期の石製鋳型で鋳造されたものと判明しているという。これは驚きだ。今回のツアーに備えて事前に調べてみたところ、巴形銅器は全国18カ所の遺跡から47個が出ていることがわかった。そのうちの8個がこの場所から出て、しかもそのうちの3個が奴国で作られたものだとは。この場所と奴国はどういうつながりがあったのだろう。

車に戻って次の森広遺跡へ向かいます。遺跡の場所にはスーパーが建っていて、ここも遺跡があったことを示すものは何もありません。この場所からは2基の円形周溝墓が見つかり、そのうちのひとつは香川県下最大級だそうです。



その場所は今ではこのような姿に。県下最大の円形周溝墓はまさにこの建物の下。



次はここからすぐの加藤遺跡。扁平紐式の袈裟襷文銅鐸の破片7点が出土したところ。同じ場所ではないものの、極めて近いところから銅剣と銅鐸が出たという意味で、たいへん興味深い場所になります。松帆銅鐸あるいは中の御堂銅鐸と古津路銅剣が出た淡路の松帆と似たような状況と言えます。



県道10号線の建設で見つかった遺跡ですが、今はこの通り。銅鐸片は信号の向こう、対向車線の下から見つかりました。



さて、平形銅剣3本、巴型銅器8個、県下最大の円形周溝墓、扁平紐式の袈裟襷文銅鐸が、わずか半径500mほどの地域から見つかったことがわかりました。この森広天神遺跡群ではほかに100 軒以上の竪穴住居も出土していることから、このあたりは弥生時代後期において東讃岐随一の有力者が治めた一大集落が存在したことが想定されます。現代の景色からは想像もできない古代の姿が復元されることに小さな興奮を覚えながら次に向かいます。

そして、もともと考えていた目的地に向かう途中に出くわしたのが大井七つ塚古墳群。5世紀後半から6世紀初頭の10〜20mほどの円墳7基からなる古墳群で、4号墳と5号墳を見ることができました。私有地にあって、土地の所有者が個人で復元整備して保存しているという珍しい古墳です。





もともとの目的地であった雨滝山奥古墳群は、弥生時代後期後半から古墳出現期の墳丘墓あるいは古墳が雨滝山の頂上エリアに点在する墳墓群。ゴルフ場開発に伴って破壊されたのだけど、特に重要とされる奥3号墳の石室が雨滝山の西麓に復元されています。その場所は大井七つ塚古墳群から歩いてわずか1分ほどのところでした。





この奥3号墳は、ゴルフ場のある丘陵の頂上部(クラブハウスあたり)に築かれた墳墓群最大、全長37mの前方後円墳。4世紀前半頃の築造で三角縁神獣鏡が出ています。ゴルフ場へ向かう道の途中に、こんな慰霊碑のようなものと古墳群の説明板がありました。せっかくなので、奥3号墳があったとされる頂上のクラブハウスまで行ってみました。





説明板には、奥3号墳は香川県で最も早い時期の古墳のひとつで、このあたりを統一した最初の首長の墓と書かれています。もしかすると弥生時代後期に香川県最大の円形周溝墓を設けた森広集落有力者の後継なのかもわかりません。森広遺跡からここまでの距離はわずか2キロほどです。

さて、時刻は12時半を回っていたので、次の目的地に向かう前にランチを取ることにしました。香川のランチと言えばやはりうどんです。途中で見つけた「麺処まはろ」というお店に入りました。カリカリ鶏唐卵黄のせぶっかけうどん(だったと思う)880円。つるとんたんで食べたら2000円以上はするでしょう。香川のうどんは本当に安くて美味い。




(つづく)







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