■神武も徐福も熊野へ来た?
今回は神武東征と徐福伝説を訪ねる実地踏査ツアーの最終回。熊野三山をあとにして向かった先が、産田神社、花の窟神社、波田須の徐福の宮、阿古師神社です。
まず産田神社から。
この神社には主祭神として伊奘冉尊と火の神である軻遇突智が祀られています。日本書紀には「伊奘冉尊は火の神である軻遇突智を産んだ際に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に葬られた」と記されていて、この産田神社は伊奘冉尊が出産して亡くなった場所といわれています。社殿の両側には日本でわずか二ヶ所しか残っていないと言われている古代の神籬の跡がありました。神籬というのは神社という形ができる前に神様を祀る神聖な場所として設けられた区画のことです。これを見ると石を並べて磐座を作ったという印象で、神様が降りてくる場所として相応しいように感じました。
次は、産田神社から車で5分ほどのところにある花の窟神社。
ここは亡くなった伊奘冉尊を葬った場所とされ、産田神社と同じく、伊奘冉尊と軻遇突智が主祭神として祀られています。社殿がなく、熊野灘に面した高さ459メートルの大きな岩がご神体となっており、先に見た神倉神社と同様にここでも磐座信仰が見られます。日本書紀には「この土地の人々は神の魂を、花が咲くときに花を捧げて祀り、太鼓を鳴らし、笛を拭き、旗を振って歌い、踊ります」と記されいて、今でも御縄掛け神事というお祭りが行なわれています。
この2つの神社はまさに神話のテーマパークという印象があるのですが、神武東征が史実であったからこそ熊野の地が地元の伝承とともに日本書紀に記され、そしてその後は日本書紀の記述をもとにテーマパーク化していった、と考えられます。
次は波田須という小さな村にある徐福の宮を訪ねました。国道をはずれて細い道に入り、不安な気持ちで村の中を進んでいくとやがて行き止まりになり、車を停めた目の前がまさに目的地でした。
徐福伝説は日本各地にあって、今回訪れた新宮や熊野はその中でも本場であるといっても過言ではないのですが、ここ波田須の徐福の宮に立つと、本当に徐福がここに来たと思わせる空気がありました。この地にやって来たのが徐福本人であったかどうかは定かではありませんが、その昔、この小さな村に流れ着き、言葉が通じない中でも村の人々に様々な技術を伝え、村の発展に貢献した人がいた、としても不思議ではないと思いました。
徐福というのは、秦の始皇帝の命令で3000人の童男童女と多くの技術者を従えて不老不死の妙薬を捜し求めて大陸から東へ船出した集団のリーダーです。おそらく秦の時代には3000人もの大人数が乗れるような大きな船はなかったでしょう。100人ずつ分けても30隻、50人とすれば60隻、いずれにしても大船団になります。大陸から漕ぎ出した大船団が東シナ海を渡るとき、一隻もはぐれずにまとまって航行できたとは到底思えません。むしろ、風や波の影響、それぞれの船の大きさや構造、荷物の重量の差などもあって、出航後まもなくして船団はバラバラになったことでしょう。バラバラになった船はそれぞれ自力で目的地を目指して航海を続け、結果、日本列島の各地に流れ着くことになったはずです。私はこれが徐福伝説が各地に残る理由だと考えています。
さて、子供の頃によく聞いた浦島太郎のお話、これまた日本各地に伝えられています。海の向こうからやってきた見知らぬ男、浦島太郎のモデルは徐福だったのかも知れません。
さあ、いよいよ最後の訪問地である阿古師神社。もともとはこの神社の先にある神武船団が遭難したと言われる楯ケ崎へ行きたかったのですが、時間と体力の関係で手前の阿古師神社で断念しました。国道わきの駐車場から海岸へ降りる遊歩道があるのですが、帰りが大変だと不安になるほどの結構な下り道を2~30分ほど行ったところで到着。
三重県神社庁によると阿古師神社の祭神は三毛入野命、天照皇大神、大山祗命、蛭子命、倉稲魂命となっているのですが、日本書紀によると神武の船団はこの海域で暴風雨に見舞われ、神武天皇の二番目の兄の稲飯命と三番目の兄である三毛入野命が入水して嵐を収めようとしました。二人の兄が犠牲になったにもかかわらず、神武の船団は結局ここで難破してしまい、上陸を余儀なくされたのです。二木島湾を挟んだ向こう側には室古神社というのがあって、そこには稲飯命が祀られています。地元の人々が命を落とした二人の亡骸を引き上げて2つの神社に祀ったということです。難破して上陸せざるをえなかった楯ケ崎はこの阿古師神社からさらに30分ほど行く必要があったので断念したのです。
以上で熊野ツアーは終了になるのですが、神武天皇が本当に紀伊半島をぐるりと回って熊野へやってきたのか、中国からの徐福は本当に熊野へやってきたのか、を感じて考えることができました。前者の結論は、神武天皇は熊野へやってきた、後者は、徐福本人かどうかはわからないが大陸からやってきた集団がいた、ということになりました。ただ、この結論は思考の終点ではなくて、あくまで始まりなのです。古代史を解き明かす無数のパーツのいくつかが見つかったにすぎないのです。
ここまで、日向、纏向、葛城、熊野と実地踏査のレポートを掲載してきましたが、このほかにも丹後・出雲の遺跡や神社、魏志倭人伝に登場する伊都国や奴国と言われる北九州の遺跡など、少しづつ訪問地が増えてきたので、機会があればこの場で紹介していきたいと思うのですが、ひとまず実地踏査レポートはこのあたりにして、次回は私が古代の日本に対してどんな仮説を考えているかを簡単に紹介させていただこうと思います。(第14回へつづく)
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今回は神武東征と徐福伝説を訪ねる実地踏査ツアーの最終回。熊野三山をあとにして向かった先が、産田神社、花の窟神社、波田須の徐福の宮、阿古師神社です。
まず産田神社から。
この神社には主祭神として伊奘冉尊と火の神である軻遇突智が祀られています。日本書紀には「伊奘冉尊は火の神である軻遇突智を産んだ際に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に葬られた」と記されていて、この産田神社は伊奘冉尊が出産して亡くなった場所といわれています。社殿の両側には日本でわずか二ヶ所しか残っていないと言われている古代の神籬の跡がありました。神籬というのは神社という形ができる前に神様を祀る神聖な場所として設けられた区画のことです。これを見ると石を並べて磐座を作ったという印象で、神様が降りてくる場所として相応しいように感じました。
次は、産田神社から車で5分ほどのところにある花の窟神社。
ここは亡くなった伊奘冉尊を葬った場所とされ、産田神社と同じく、伊奘冉尊と軻遇突智が主祭神として祀られています。社殿がなく、熊野灘に面した高さ459メートルの大きな岩がご神体となっており、先に見た神倉神社と同様にここでも磐座信仰が見られます。日本書紀には「この土地の人々は神の魂を、花が咲くときに花を捧げて祀り、太鼓を鳴らし、笛を拭き、旗を振って歌い、踊ります」と記されいて、今でも御縄掛け神事というお祭りが行なわれています。
この2つの神社はまさに神話のテーマパークという印象があるのですが、神武東征が史実であったからこそ熊野の地が地元の伝承とともに日本書紀に記され、そしてその後は日本書紀の記述をもとにテーマパーク化していった、と考えられます。
次は波田須という小さな村にある徐福の宮を訪ねました。国道をはずれて細い道に入り、不安な気持ちで村の中を進んでいくとやがて行き止まりになり、車を停めた目の前がまさに目的地でした。
徐福伝説は日本各地にあって、今回訪れた新宮や熊野はその中でも本場であるといっても過言ではないのですが、ここ波田須の徐福の宮に立つと、本当に徐福がここに来たと思わせる空気がありました。この地にやって来たのが徐福本人であったかどうかは定かではありませんが、その昔、この小さな村に流れ着き、言葉が通じない中でも村の人々に様々な技術を伝え、村の発展に貢献した人がいた、としても不思議ではないと思いました。
徐福というのは、秦の始皇帝の命令で3000人の童男童女と多くの技術者を従えて不老不死の妙薬を捜し求めて大陸から東へ船出した集団のリーダーです。おそらく秦の時代には3000人もの大人数が乗れるような大きな船はなかったでしょう。100人ずつ分けても30隻、50人とすれば60隻、いずれにしても大船団になります。大陸から漕ぎ出した大船団が東シナ海を渡るとき、一隻もはぐれずにまとまって航行できたとは到底思えません。むしろ、風や波の影響、それぞれの船の大きさや構造、荷物の重量の差などもあって、出航後まもなくして船団はバラバラになったことでしょう。バラバラになった船はそれぞれ自力で目的地を目指して航海を続け、結果、日本列島の各地に流れ着くことになったはずです。私はこれが徐福伝説が各地に残る理由だと考えています。
さて、子供の頃によく聞いた浦島太郎のお話、これまた日本各地に伝えられています。海の向こうからやってきた見知らぬ男、浦島太郎のモデルは徐福だったのかも知れません。
さあ、いよいよ最後の訪問地である阿古師神社。もともとはこの神社の先にある神武船団が遭難したと言われる楯ケ崎へ行きたかったのですが、時間と体力の関係で手前の阿古師神社で断念しました。国道わきの駐車場から海岸へ降りる遊歩道があるのですが、帰りが大変だと不安になるほどの結構な下り道を2~30分ほど行ったところで到着。
三重県神社庁によると阿古師神社の祭神は三毛入野命、天照皇大神、大山祗命、蛭子命、倉稲魂命となっているのですが、日本書紀によると神武の船団はこの海域で暴風雨に見舞われ、神武天皇の二番目の兄の稲飯命と三番目の兄である三毛入野命が入水して嵐を収めようとしました。二人の兄が犠牲になったにもかかわらず、神武の船団は結局ここで難破してしまい、上陸を余儀なくされたのです。二木島湾を挟んだ向こう側には室古神社というのがあって、そこには稲飯命が祀られています。地元の人々が命を落とした二人の亡骸を引き上げて2つの神社に祀ったということです。難破して上陸せざるをえなかった楯ケ崎はこの阿古師神社からさらに30分ほど行く必要があったので断念したのです。
以上で熊野ツアーは終了になるのですが、神武天皇が本当に紀伊半島をぐるりと回って熊野へやってきたのか、中国からの徐福は本当に熊野へやってきたのか、を感じて考えることができました。前者の結論は、神武天皇は熊野へやってきた、後者は、徐福本人かどうかはわからないが大陸からやってきた集団がいた、ということになりました。ただ、この結論は思考の終点ではなくて、あくまで始まりなのです。古代史を解き明かす無数のパーツのいくつかが見つかったにすぎないのです。
ここまで、日向、纏向、葛城、熊野と実地踏査のレポートを掲載してきましたが、このほかにも丹後・出雲の遺跡や神社、魏志倭人伝に登場する伊都国や奴国と言われる北九州の遺跡など、少しづつ訪問地が増えてきたので、機会があればこの場で紹介していきたいと思うのですが、ひとまず実地踏査レポートはこのあたりにして、次回は私が古代の日本に対してどんな仮説を考えているかを簡単に紹介させていただこうと思います。(第14回へつづく)
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