古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

西殿塚古墳・東殿塚古墳(葛城・纒向ツアー No.24)

2020年01月17日 | 実地踏査・古代史旅
 燈籠山古墳に佐々木さんを残して岡田さんと私は西殿塚古墳を目指して柿畑のあぜ道を歩き出しました。ダラダラとした登り坂の向こうに青空に映えて美しい姿の前方後円墳が見えています。



途中、左手の柿畑の中に見える小山が火矢塚古墳です。



全長49メートルの前方後円墳らしいのですが、柿の木がたくさんあって左側の前方部を隠してしまっているので円墳に見えます。

 熟した柿が甘く匂ってきます。これだけたくさんの熟した柿に囲まれると、その甘い匂いで気持ち悪くなりそうです。そしてついに西殿塚古墳に到着です。この古墳は衾田陵(ふすまだのみささぎ)として第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されています。





 全長は約230メートルで大和古墳群では最大規模となります。斜面に造られたという意味では行燈山古墳や渋谷向山古墳と同じですが、このふたつの古墳は東から西に延びる尾根を利用して作られているので前方部と後円部に高低差が出ましたが、西殿塚古墳は東から西に傾斜する東西軸の斜面に直角に築造されているために東側と西側で高低差が出ます。西側のほうが低いために段築は東側より西側が一段多くなっています。
 主体部の埋葬施設は明らかにされていませんが、墳丘上からは特殊器台のほか、特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの初期の埴輪が検出されたことなどから、3世紀後半(古墳時代前期前半)頃の築造と推定され、出現期古墳である箸墓古墳に後続する大王墓と考えられています。そうです、西殿塚古墳は大和で特殊器台が出た4つの古墳のひとつです。



 前述のとおり、第26代継体天皇皇后、手白香皇女の陵に治定されていますが、継体天皇は6世紀前半の天皇であり、その皇后の陵が3世紀後半というのはあまりにかけ離れているため、考古学的には真の手白香皇女陵はすぐ近くにある西山塚古墳とする説が有力視されています。
 では、この西殿塚古墳の被葬者はいったい誰なのか、ということになりますが、なんと卑弥呼の宗女である台与とする説や、第10代崇神天皇という説があるそうです。


 さて、この西殿塚古墳のすぐ東側に平行して東殿塚古墳があります。当初のルートではいったん斜面を下りて後円部に回り込んで見学しようと考えていたのですが、上ってきた小道が先まで続いていて、東殿塚古墳の手前と思われる藪の中へ延びています。もしかしたらここから行けるかも、と思って進んでみました。

 ところが、藪に入り込んだ途端に大変なことになってしまった。右側は崖になっていて足を滑らせたら谷に落ちそうだし、小道があると思われるところは木々が茂っていて踏み込めない。でも、木々の向こうに墳丘らしきものが見えます。



なんとか木々をかき分けて小道に出ると、身長よりも少し高い壁が立ちはだかっています。



 これが前方部の縁であって欲しいと考えながら進むと、その壁を左に回り込むように小道が続いています。ここが前方部の角であって欲しいと思って左に曲がると、まだ先に小道が続いていそうな様子でしたが不安な気持ちも大きくなって「ここまでかな」と観念して引き返すことしました。



 東殿塚古墳は大和古墳群の中で最も高い所にあって、墳丘に上がると奈良盆地の全域を見渡すことができるそうです。残念ながら墳丘に上がることができませんでしたが、引き返すときの西殿塚古墳手前からの眺望はそれを十分に想像させてくれました。



 天理市のホームページによると、東殿塚古墳は全長139メートルの前方後円墳で、基底部の長方形区画は全長175メートルの規模があります。1997年の発掘調査で、周濠と周堤帯が見つかったそうです。ん?基底部?
 
橿原考古学研究所が行った3次元航空レーザー計測による空からの調査の写真。

奈良県立橿原考古学研究所とアジア航測株式会社による報道発表資料からです。

 左が西殿塚古墳で右が東殿塚古墳です。これを見ると墳丘の最下部に長方形の基底部があるのがわかります。前方部の手前には足を滑らせると危険な谷が確認できます。私たちはこの谷の縁に沿うように左から右に進んで前方部もしくは基底部の右角に到達したということになります。これを見てもわかる通り、どう考えても後円部側から墳丘に近づくべきでした。でも、前日の條庚申塚古墳もそうでしたが、実地踏査にふさわしいちょっとした探検気分を味わうことができたので、それはそれで満足です。

 話を戻すと、1997年の調査では埴輪祭祀の遺構が見つかり、埴輪が多量に出土。これらの結果、3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳と考えられる、とのことです。西殿塚古墳、東殿塚古墳ともに3世紀後半の古い古墳ということです。

 東殿塚古墳の出土品で特徴的なものが、前方部西側の一角に設けられた造り出し的な祭祀遺構から出土した楕円形円筒埴輪です。この埴輪の下部にヘラ書き船の絵を描いたものが3点(1~3号船画)発見されました。特に1号船画は、ゴンドラの形をした船に7本の櫂を描いていることから14人で漕ぐ大型船であり、帆に風を受けて海上を疾走する様子を描いたものと解釈されています。この線刻画から、3世紀後半にこのような大型船が使われていたことがわかります。



 いやあ、西殿塚古墳の美しい姿と眺望、東殿塚古墳での冒険、いずれも楽しい時間でした。佐々木さんも来ればよかったのになあ。



古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋 浩毅
日比谷出版社


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