司馬遷の『史記』によると、秦の始皇帝は方士である徐福を東方に派遣して不老不死の仙薬を求めさせました。徐福は3,000人もの童男童女や多くの技術者とともに日本列島にやってきましたが、そこで平原広沢を得て王となり、二度と秦に戻ることはありませんでした。多くの技術者と書かれていますが、仙薬を発見することが目的であったので、一行の中には徐福と同じ方士がたくさんいたと考えられます。方士とは、占い、気功、錬丹術などの方術によって不老長寿、尸解(しかい=羽化すること)を成し遂げようとした、つまり神仙になることを目指して修行した者のことです。さらに、『三国志』呉書の呉王伝・黄龍2年(230年)の記事には、秦の時代に徐福が渡海したが戻らず、その子孫が数万家になっていると書かれてあり、徐福一行の子孫が日本で大きな集団となって各地に存続していたことが窺われます。時代はまさに弥生時代終末期です。
徐福は中国においても伝説の人物とされてきましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。日本でも各地に徐福伝承が残る地域がありますが、徐福が実在したことと『史記』や『呉書』に書かれた内容とを合わせて考えると、各地の徐福伝承もなにがしかの根拠のあるものと考えてよいと思います。この徐福一行が列島各地に神仙思想を伝えた結果、首長や王と呼ばれる各地のリーダーたちは自らが不老不死の神仙になることを希求するようになります。
徐福伝承が色濃く残る北部九州では弥生時代中期に甕棺墓が隆盛しました。とくに王墓とされる甕棺墓は複式構造の合口部分を粘土などで密閉しており、再生を願って遺体を保存する意識が強く窺えることから、不老不死を目指した神仙思想に基づく墓制である、との見解があります。棺内に朱が塗られていたり、棺外に朱入りの壺を副葬する例も同様に神仙思想によるものではないでしょうか。埋葬施設に朱が用いられる例は出雲や丹後、吉備などの大型の墳丘墓でも顕著に見られますが、これらは各地に分散した徐福一行あるいはその後裔たちの神仙思想の布教活動の産物ではないかと考えられます。甕棺墓は愛媛県中西部、広島県西部および山口県東南部などの西部瀬戸内地域においても採用されています。
甕棺墓を採用したり、埋葬施設に多量の朱を用いるこれらの地域は、近畿や東海で隆盛した方形周溝墓や播磨や阿波・讃岐など東部瀬戸内地域で見られる円形周溝墓が流行らなかった地域とも言えます。弥生時代中期には神仙思想に基づく造墓を行う地域とそうでない地域があり、後者では方形周溝墓や円形周溝墓を造っていたということになります。その後、弥生時代終末期に入り、方形墓や円形墓を造っていた地域においても造墓思想の大転換が起こり、神仙思想による前方後方形や前方後円形の墓が造られ、それが瞬く間に東西各地に広がって古墳時代に突入することになります。
この大転換はもともと円形墓を造っていた集団から始まったと考えます。大阪府豊中市の服部遺跡で見つかった弥生時代終末期の4基の周溝墓のうち、3基が1カ所に通路を持つ円形周溝墓でしたが、残る1基は全長18mほどの前方後円形周溝墓、すなわち壺形の周溝墓でした。服部遺跡では円形の墓を突然に壺形に変えたのです。植田文雄氏はこの墓の造営時期を200~220年としています。同じ頃、大和では大規模な壺形古墳が築かれます。全長96mの纒向石塚古墳です。そして3世紀中頃までに千葉県で全長42.5mの神門5号墳、滋賀県鴨田遺跡で全長19mのSX01、愛媛県で全長24mの大久保1号墳など、周溝が全周する前方後円形の墳墓が各地に出現し始めます。この大久保1号墳は半円形の周溝墓の隣りに造られています。
3世紀初頭、畿内の摂津あるいは大和の王は神仙界に行きたいという強い気持ちから、北部九州の甕棺墓を上回る墓を生み出しました。甕棺墓は再生を願って遺体を密封、保存するための墓でしたが、壺形古墳はダイレクトに神仙界に行くことができる墓です。壺形の墓はおそらく通路のついた円形周溝墓に着想を得て、円形部を胴部、通路部を頸部に見立てて壺形にしたのだと思いますが、そこには壺の意味をよく理解している徐福一行の末裔による何らかの関与があったに違いありません。これが周溝を渡るための通路という機能を捨ててまで周溝を全周させることになった理由、前方後円形の墳墓が誕生した経緯です。徐福の子孫が列島で数万家となって繁栄していることが『呉書』に記されたのがちょうどこの頃です。
話が少しそれますが、徐福一行およびその末裔たちは日本列島各地で神仙思想を広める役割を果たしたのですが、甕棺墓の造営、朱の精製、壺形土器の供献、さらには葬送儀礼の挙行など、各地の王の死にまつわる祭祀をも司る役割を担っていたのではないでしょうか。彼らは各地で王族とつながり、その祭祀を担う一族として繁栄を謳歌していたと思われます。そんな各地の一族がのちに部民として物部と呼ばれ、なかでも大王家とつながった物部連氏が各地の物部を統括するようになります。このあたりの話は別稿「物部氏を妄想する①~⑱」に詳しく書いたのでご覧いただければと思います。
(つづく)
<主な参考文献>
「古墳とは何か 認知考古学からみる古代」 松木武彦
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
「古墳の思想 象徴のアルケオロジー」 辰巳和弘
「徐福と日本神話の神々」 前田豊
「不老不死 仙人の誕生と神仙術」 大形徹
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
徐福は中国においても伝説の人物とされてきましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。日本でも各地に徐福伝承が残る地域がありますが、徐福が実在したことと『史記』や『呉書』に書かれた内容とを合わせて考えると、各地の徐福伝承もなにがしかの根拠のあるものと考えてよいと思います。この徐福一行が列島各地に神仙思想を伝えた結果、首長や王と呼ばれる各地のリーダーたちは自らが不老不死の神仙になることを希求するようになります。
徐福伝承が色濃く残る北部九州では弥生時代中期に甕棺墓が隆盛しました。とくに王墓とされる甕棺墓は複式構造の合口部分を粘土などで密閉しており、再生を願って遺体を保存する意識が強く窺えることから、不老不死を目指した神仙思想に基づく墓制である、との見解があります。棺内に朱が塗られていたり、棺外に朱入りの壺を副葬する例も同様に神仙思想によるものではないでしょうか。埋葬施設に朱が用いられる例は出雲や丹後、吉備などの大型の墳丘墓でも顕著に見られますが、これらは各地に分散した徐福一行あるいはその後裔たちの神仙思想の布教活動の産物ではないかと考えられます。甕棺墓は愛媛県中西部、広島県西部および山口県東南部などの西部瀬戸内地域においても採用されています。
甕棺墓を採用したり、埋葬施設に多量の朱を用いるこれらの地域は、近畿や東海で隆盛した方形周溝墓や播磨や阿波・讃岐など東部瀬戸内地域で見られる円形周溝墓が流行らなかった地域とも言えます。弥生時代中期には神仙思想に基づく造墓を行う地域とそうでない地域があり、後者では方形周溝墓や円形周溝墓を造っていたということになります。その後、弥生時代終末期に入り、方形墓や円形墓を造っていた地域においても造墓思想の大転換が起こり、神仙思想による前方後方形や前方後円形の墓が造られ、それが瞬く間に東西各地に広がって古墳時代に突入することになります。
この大転換はもともと円形墓を造っていた集団から始まったと考えます。大阪府豊中市の服部遺跡で見つかった弥生時代終末期の4基の周溝墓のうち、3基が1カ所に通路を持つ円形周溝墓でしたが、残る1基は全長18mほどの前方後円形周溝墓、すなわち壺形の周溝墓でした。服部遺跡では円形の墓を突然に壺形に変えたのです。植田文雄氏はこの墓の造営時期を200~220年としています。同じ頃、大和では大規模な壺形古墳が築かれます。全長96mの纒向石塚古墳です。そして3世紀中頃までに千葉県で全長42.5mの神門5号墳、滋賀県鴨田遺跡で全長19mのSX01、愛媛県で全長24mの大久保1号墳など、周溝が全周する前方後円形の墳墓が各地に出現し始めます。この大久保1号墳は半円形の周溝墓の隣りに造られています。
3世紀初頭、畿内の摂津あるいは大和の王は神仙界に行きたいという強い気持ちから、北部九州の甕棺墓を上回る墓を生み出しました。甕棺墓は再生を願って遺体を密封、保存するための墓でしたが、壺形古墳はダイレクトに神仙界に行くことができる墓です。壺形の墓はおそらく通路のついた円形周溝墓に着想を得て、円形部を胴部、通路部を頸部に見立てて壺形にしたのだと思いますが、そこには壺の意味をよく理解している徐福一行の末裔による何らかの関与があったに違いありません。これが周溝を渡るための通路という機能を捨ててまで周溝を全周させることになった理由、前方後円形の墳墓が誕生した経緯です。徐福の子孫が列島で数万家となって繁栄していることが『呉書』に記されたのがちょうどこの頃です。
話が少しそれますが、徐福一行およびその末裔たちは日本列島各地で神仙思想を広める役割を果たしたのですが、甕棺墓の造営、朱の精製、壺形土器の供献、さらには葬送儀礼の挙行など、各地の王の死にまつわる祭祀をも司る役割を担っていたのではないでしょうか。彼らは各地で王族とつながり、その祭祀を担う一族として繁栄を謳歌していたと思われます。そんな各地の一族がのちに部民として物部と呼ばれ、なかでも大王家とつながった物部連氏が各地の物部を統括するようになります。このあたりの話は別稿「物部氏を妄想する①~⑱」に詳しく書いたのでご覧いただければと思います。
(つづく)
<主な参考文献>
「古墳とは何か 認知考古学からみる古代」 松木武彦
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
「古墳の思想 象徴のアルケオロジー」 辰巳和弘
「徐福と日本神話の神々」 前田豊
「不老不死 仙人の誕生と神仙術」 大形徹
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