ここまで3世紀初め頃に前方後円墳(あるいは前方後円形周溝墓)および前方後方墳(あるいは前方後方形周溝墓)が誕生した経緯や、ほぼ定説となっている主に前方後円墳に関する専門家の見解に対しての異論を述べ、前方後円墳は円形由来の壺形古墳であり、前方後方墳は方形由来の壺形古墳であるとの見解を示しました。また、大陸から渡来した徐福一行の末裔が各地において神仙思想をもとにした葬送に関する祭祀を取り仕切っていた可能性や、ヤマト王権の大王墓として前方後円墳が選択された理由についても触れました。最後に、前方後円墳に対する前方後方墳の位置付けについて考えておきたいと思います。
大王家が前方後円墳を選択したのが箸墓古墳が造られた3世紀後半なので、それまでは墳墓の築造に特段の決まりごとはなく、各地の有力者は自らの意志と権力をもって自らが望む墓を造っていたと思われます。出雲や越の四隅突出型墳丘墓、北近畿の方形台状墓などが3世紀に入ってからも続けられたほか、前方後円形や前方後方形の壺形古墳も各地で造られました。少なくとも箸墓古墳の築造までに造られた各地の壺形古墳は大和が大王墓として前方後円墳を選択したこととは関係がありません。むしろ箸墓古墳が築造された時期には前方後方墳が急増し、北は福島県から南は佐賀県まで分布するようになり、東海、北陸、関東、東北南部、播磨、北部九州などでは前方後方墳が先行して造られたようです。
すでに「前方後方墳の考察⑨(壺形古墳説の確認)」で整理した通り、前方後円墳は約4,800基、前方後方墳はその約1割の500基ほどが全国で確認されています。また、同じ時期の最も大きい両者を比較すると、前方後方墳の規模が前方後円墳を上回ることはありません。
下図は同時代における前方後円墳と前方後方墳の最大規模どうしを比較したものです。古代史コミュニティ「古代史日和」を主宰する藤江かおりさんが作成したものをお借りしました。これを見ると、たしかに同じ時期の築造と考えられる両者を比較すると常に前方後円墳が前方後方墳を上回っている状況が確認できます。
(「古代史日和」藤江かおり氏より拝借)
都出比呂志氏は、古墳の墳形には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の四つの基本形があり、被葬者の身分はこの墳形と規模の二重の基準で表現されたと言います。墳形においては前方後円墳→前方後方墳→円墳→方墳と序列化され、規模においてはそれぞれの墳形で最大規模から最小規模へと序列化されるというもので、これに従うなら古墳時代に政治的な身分秩序を反映した古墳の築造ルールが存在したということになります。前述した前方後円墳と前方後方墳の規模の比較がここに反映されています。しかし一方、序列が下がるほど数が増えるのが通常であるこのようなヒエラルキーを4,800基の前方後円墳と500基の前方後方墳との間に読み取ることはできません。さらに全国的に見れば方墳より円墳の方が圧倒的に数が多いのではないでしょうか。これらの点から都出氏の説は成立しないと考えます。
『古代国家の胎動(都出比呂志)』より
また、各地の首長墓の系譜にはいくつかのパターンがあるとされます。前方後方墳が継続的に造られる「前方後方墳継続型」、途中から墳形が円墳に変わる「前方後方墳→円墳交代型」、最初の1基が前方後方墳で、その後は前方後円墳を築造する「前方後方墳→前方後円墳交代型」、前方後円墳のみからなる「前方後円墳継続型」などです。この事実からは、各地の首長の墳形を規定する統一的なルールが存在しなかったと考えることができます。
古墳の築造に関する特別なルールがあったとすればそれは「大王の墓よりも大きい墓を造ってはいけない」という1点のみだったのではないでしょうか。前方後円墳の築造が大王家だけに許されたわけではなく、また大王家から前方後円墳の築造を命令されたわけでもなく、各地の首長は同時代の大王墓の規模を超えないように注意しながらも、自らが望む形の墓を造りました。また、各地においても同様に、どんな形の墓でもよいが首長墓より大きい墓を造ってはいけないとされたようです。その結果、首長を始めとする有力者たちにとって神仙界へ赴くための墓である壺形古墳の人気は絶大で、直接的に壺の形を表した円形由来の前方後円墳が全国各地で造られることになりました。一方で、方形墓の伝統を堅持する地域や集団、あるいはそこに出自を持つ首長や有力者は方形由来の壺形古墳である前方後方墳を造ったわけです。ただ、その数は自ずと前方後円墳に比べると少なくなります。このように考えれば、規模においても数においても常に前方後円墳が前方後方墳を上回るという状況の説明がつきます。
全国で約500基の前方後方墳の分布を都道府県別に見ると次の図のようになります。ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」より拝借しました。これによると方形由来の壺形古墳の発祥地と考えられる滋賀県(近江)や愛知県(尾張)、さらに東へ向かって北関東一帯などに多く分布するのは、弥生時代に方形周溝墓が隆盛していたことと関係がありそうです。また、島根県(出雲)や石川県(越)など日本海側では四隅突出型墳丘墓や台状墓などの方形墓が造られていました。一方で、円形周溝墓が多く分布する東部瀬戸内の範囲と考えられる岡山県(吉備)に前方後方墳が多く分布するのは意外ですが、出雲もしくは畿内に出自をもつ有力者の墓とも考えられます。
(「ぺんの古墳探訪記」より拝借)
前方後円墳に対する前方後方墳の位置付けを規模と数の点から考えてみましたが、墳形として一方が優位で他方が劣位ということではなく、いずれも神仙界を意味する壺の形を表現したものであるものの、単数埋葬を基本とする円形周溝墓に由来する前方後円墳の方が大王墓に相応しく、さらに言えば前方後円墳の方がより壺に似ていることから大王家が前方後円墳を採用したということです。また、大王墓を超える大きな墓を造ってはいけないというルールによって、同時代での比較をすると大王墓である前方後円墳の方が常に大きいという状況が起こったのです。
(つづく)
<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「日本古代の国家形成論序説 -前方後円墳体制の提唱-」都出比呂志
「前方後方墳の思想」 青山博樹
「倭王権の地域的構造 小古墳と集落を中心とした分析より」 松木武彦
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大王家が前方後円墳を選択したのが箸墓古墳が造られた3世紀後半なので、それまでは墳墓の築造に特段の決まりごとはなく、各地の有力者は自らの意志と権力をもって自らが望む墓を造っていたと思われます。出雲や越の四隅突出型墳丘墓、北近畿の方形台状墓などが3世紀に入ってからも続けられたほか、前方後円形や前方後方形の壺形古墳も各地で造られました。少なくとも箸墓古墳の築造までに造られた各地の壺形古墳は大和が大王墓として前方後円墳を選択したこととは関係がありません。むしろ箸墓古墳が築造された時期には前方後方墳が急増し、北は福島県から南は佐賀県まで分布するようになり、東海、北陸、関東、東北南部、播磨、北部九州などでは前方後方墳が先行して造られたようです。
すでに「前方後方墳の考察⑨(壺形古墳説の確認)」で整理した通り、前方後円墳は約4,800基、前方後方墳はその約1割の500基ほどが全国で確認されています。また、同じ時期の最も大きい両者を比較すると、前方後方墳の規模が前方後円墳を上回ることはありません。
下図は同時代における前方後円墳と前方後方墳の最大規模どうしを比較したものです。古代史コミュニティ「古代史日和」を主宰する藤江かおりさんが作成したものをお借りしました。これを見ると、たしかに同じ時期の築造と考えられる両者を比較すると常に前方後円墳が前方後方墳を上回っている状況が確認できます。
(「古代史日和」藤江かおり氏より拝借)
都出比呂志氏は、古墳の墳形には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の四つの基本形があり、被葬者の身分はこの墳形と規模の二重の基準で表現されたと言います。墳形においては前方後円墳→前方後方墳→円墳→方墳と序列化され、規模においてはそれぞれの墳形で最大規模から最小規模へと序列化されるというもので、これに従うなら古墳時代に政治的な身分秩序を反映した古墳の築造ルールが存在したということになります。前述した前方後円墳と前方後方墳の規模の比較がここに反映されています。しかし一方、序列が下がるほど数が増えるのが通常であるこのようなヒエラルキーを4,800基の前方後円墳と500基の前方後方墳との間に読み取ることはできません。さらに全国的に見れば方墳より円墳の方が圧倒的に数が多いのではないでしょうか。これらの点から都出氏の説は成立しないと考えます。
『古代国家の胎動(都出比呂志)』より
また、各地の首長墓の系譜にはいくつかのパターンがあるとされます。前方後方墳が継続的に造られる「前方後方墳継続型」、途中から墳形が円墳に変わる「前方後方墳→円墳交代型」、最初の1基が前方後方墳で、その後は前方後円墳を築造する「前方後方墳→前方後円墳交代型」、前方後円墳のみからなる「前方後円墳継続型」などです。この事実からは、各地の首長の墳形を規定する統一的なルールが存在しなかったと考えることができます。
古墳の築造に関する特別なルールがあったとすればそれは「大王の墓よりも大きい墓を造ってはいけない」という1点のみだったのではないでしょうか。前方後円墳の築造が大王家だけに許されたわけではなく、また大王家から前方後円墳の築造を命令されたわけでもなく、各地の首長は同時代の大王墓の規模を超えないように注意しながらも、自らが望む形の墓を造りました。また、各地においても同様に、どんな形の墓でもよいが首長墓より大きい墓を造ってはいけないとされたようです。その結果、首長を始めとする有力者たちにとって神仙界へ赴くための墓である壺形古墳の人気は絶大で、直接的に壺の形を表した円形由来の前方後円墳が全国各地で造られることになりました。一方で、方形墓の伝統を堅持する地域や集団、あるいはそこに出自を持つ首長や有力者は方形由来の壺形古墳である前方後方墳を造ったわけです。ただ、その数は自ずと前方後円墳に比べると少なくなります。このように考えれば、規模においても数においても常に前方後円墳が前方後方墳を上回るという状況の説明がつきます。
全国で約500基の前方後方墳の分布を都道府県別に見ると次の図のようになります。ぺんさんのブログ「ぺんの古墳探訪記」より拝借しました。これによると方形由来の壺形古墳の発祥地と考えられる滋賀県(近江)や愛知県(尾張)、さらに東へ向かって北関東一帯などに多く分布するのは、弥生時代に方形周溝墓が隆盛していたことと関係がありそうです。また、島根県(出雲)や石川県(越)など日本海側では四隅突出型墳丘墓や台状墓などの方形墓が造られていました。一方で、円形周溝墓が多く分布する東部瀬戸内の範囲と考えられる岡山県(吉備)に前方後方墳が多く分布するのは意外ですが、出雲もしくは畿内に出自をもつ有力者の墓とも考えられます。
(「ぺんの古墳探訪記」より拝借)
前方後円墳に対する前方後方墳の位置付けを規模と数の点から考えてみましたが、墳形として一方が優位で他方が劣位ということではなく、いずれも神仙界を意味する壺の形を表現したものであるものの、単数埋葬を基本とする円形周溝墓に由来する前方後円墳の方が大王墓に相応しく、さらに言えば前方後円墳の方がより壺に似ていることから大王家が前方後円墳を採用したということです。また、大王墓を超える大きな墓を造ってはいけないというルールによって、同時代での比較をすると大王墓である前方後円墳の方が常に大きいという状況が起こったのです。
(つづく)
<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「日本古代の国家形成論序説 -前方後円墳体制の提唱-」都出比呂志
「前方後方墳の思想」 青山博樹
「倭王権の地域的構造 小古墳と集落を中心とした分析より」 松木武彦
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