古代日本国成立の物語

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武内宿禰の考察①(武内宿禰の事績)

2020年09月10日 | 武内宿禰
■武内宿禰の事績

古代史の勉強で記紀を読んでいて大いに興味をもった人物、それが武内宿禰である。景行天皇から仁徳天皇までの5人の天皇および神功皇后に仕え、280歳とも360余歳とも言われるあり得ない長寿の人物として描かれていること、特に神功皇后との関係においては臣下の分際を超えた親密な関係が想像されること、などが興味を持った理由。複数の人物の事績をあたかも一人の人物によるものとして描いているとか、実在の人物ではなく大臣の理想像を投影した架空の人物であるとか、様々な考え方が出されている。今般、改めて日本書紀の応神天皇紀を読んでいて武内宿禰の扱いに大きな違和感を持つ場面があったので、この際、自分なりの武内宿禰像を描いてみようと思う。ただし、あくまで自分なりなので、ほとんど想像の話になることをご了承ください。

まず、日本書紀に記される武内宿禰の名が登場するシーン、全部で21カ所を確認してみたい。

第8代孝元天皇紀
孝元7年、天皇と妃の伊香色謎命との間に生まれた彦太忍信命は武内宿禰の祖父である。

第13代景行天皇紀
景行3年、屋主忍男武雄心命を紀伊国に遣わした。武雄心命は阿備の柏原で神祇を祀って9年間滞在し、その間に紀直の先祖である菟道彦の娘、影媛を娶って武内宿禰が生まれた。

景行25年、武内宿禰を遣わして北陸と東方諸国の地形や人民の様子を視察させた。

景行27年、武内宿禰は東国より戻って「東に日高見国がある。男も女も髪を椎のように結い、入墨をしていて勇敢である。すべて蝦夷という。土地は肥沃で広大である。攻略するとよい」と報告した。

景行51年正月、天皇は群卿を招いて数日の宴を催したが、武内宿禰と皇子の稚足彦(のちの成務天皇)は非常時に備えて出席しなかった。天皇はこれを賞賛して特に目をかけた。

景行51年8月、武内宿禰を棟梁之臣に任命した。

第14代成務天皇紀
成務3年、武内宿禰を大臣に任命した。天皇と武内宿禰は同じ誕生日であったので特に可愛がられた。

第15代仲哀天皇紀
仲哀9年2月、神功皇后と大臣である武内宿禰は、橿日宮での新羅討伐の神託に従わずに崩御した天皇の喪を天下に知らせなかった。皇后は武内宿禰に命じて、天皇の遺骸を海路で穴門に移させ、豊浦宮で火を焚かずに仮葬した。その後、武内宿禰は穴門から戻って皇后に報告した。

神功皇后摂政前紀
仲哀9年3月、神功皇后は小山田邑に設けた斎宮で自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)として神託を行なった。

仲哀9年4月、神功皇后は新羅出兵に先立つ九州遠征で、神田に水を引こうと溝を掘ったところ、大きな岩が邪魔をした。武内宿禰に命じて、剣と鏡を捧げて神祇に祈って水を通させようとすると、急に雷が激しく鳴って岩を砕いたので水を通すことができた。

仲哀10年2月、神功皇后は香坂王・押熊王の兄弟による反乱に際し、武内宿禰に命じて皇子(のちの応神天皇)を連れて迂回させ、南海から紀伊水門へ向かわせた。

仲哀10年3月、神功皇后は武内宿禰と和邇臣の先祖である武振熊に対し、数万の兵を率いて押熊王を討つように命じた。武内宿禰らは精兵を選んで山城方面に進出して宇治川の北で押熊軍と対峙した。武内宿禰は和睦を装う謀略によって敵を欺き、近江の逢坂まで追い込んで敵を討った。
 
神功皇后摂政紀
神功摂政13年、摂政となった神功皇太后は武内宿禰に命じて、太子(誉田別皇子)を連れて敦賀の気比大神に参らせた。敦賀から戻った太子のための宴席で皇太后と武内宿禰は歌を歌いあった。

神功摂政47年、皇太后と太子は、百済と新羅による朝貢の際に百済の珍しい貢物を奪って入れ替えたという新羅の悪事を暴くために誰を派遣すればよいかを占ったところ、天神は「武内宿禰に諮らせて千熊長彦を派遣すればうまく行く」と応えた。

神功摂政51年、百済からの朝貢に際して皇太后は太子と武内宿禰に語って「親交を結ぶ百済国は天からの賜り物である。見たことのない珍しいものなどをいつも献上してくる。私はこのことを常に喜んでいる。私のあとも後々まで恩恵を与えるように」と言った。

第16代応神天皇紀
応神7年、高麗人・百濟人・任那人・新羅人が来朝した。天皇は武内宿禰に命じてこれらの韓人に池を作らせた。韓人池という。

応神9年、武内宿禰を筑紫に派遣して人民を監察させた。このとき、弟の甘美内宿禰が兄を除こうとして「武内宿禰には天下を狙う心があって、筑紫を割いて取り、三韓を自分に従わせたら天下を取れる、と言っている」と天皇に讒言をした。天皇は武内宿禰を殺そうとして使いを派遣したが武内宿禰は無実を訴えた。このとき、壱岐直の先祖である真根子は武内宿禰に容姿がそっくりであったので身代わりになって自ら命を絶った。武内宿禰は大いに悲しんで密かに筑紫を脱出して朝廷に訴え出た。天皇は兄弟に探湯をさせたところ武内宿禰が勝った。武内宿禰は甘美内宿禰を斬ろうとしたが天皇は弟を許して紀直の先祖に与えた。

第16代仁徳天皇紀
仁徳元年、天皇が生まれたとき、木菟(つく=みみずく)が産屋に飛び込んだ。翌朝、父である応神天皇は大臣の武内宿禰を呼んで「何の兆しか」と問うたところ、大臣は「吉兆です。昨日、自分の妻が出産するときに鷦鷯(さざき=みそさざい)が産屋に飛び込んできましたが、これも不思議なこと」と答えた。天皇は「ふたりの子が同じ日に生まれ、同じような兆しがあったが、これは天のお示しであろう。その鳥の名を取って互いに交換して子どもに名付け、後世の契りとしよう」と言って、鷦鷯の名前を太子に付けて大鷦鷯皇子とした。また木菟の名を大臣の子に付けて木菟宿禰とした。平群臣の先祖である。

仁徳50年、茨田の堤に雁が子を産んだと河内の人が申し出た。天皇は武内宿禰に歌で、雁が子を産むのを聞いたことがあるかと問うたところ、宿禰は聞いたことがないと歌で答えた。

第19代允恭天皇紀
允恭5年、葛城襲津彦の孫の玉田宿禰は、反正天皇の殯を命じられたが役割を果たさずに酒宴を催していたことが尾張連吾襲に知れるところとなったため、吾襲を殺して武内宿禰の墓に逃げ込んだ。

第26代継体天皇紀
継体6年、百済への任那4県の割譲にあたり、物部連麁鹿火の妻が諌めて「住吉大神が高麗、百済、新羅、任那を胎中の応神天皇に授けた。それで神功皇后と大臣の武内宿禰は各国に宮家を設けて我が国の守りとした由来がある。これを他国に与えたら後世にわたって非難されるでしょう」と言った。



以上が日本書紀に記される武内宿禰の名が見えるシーンである。このうち冒頭の孝元紀および最後の允恭紀、継体紀を除く部分が武内宿禰の事績に関する話である。このことから、武内宿禰が景行天皇から仁徳天皇までの5人の天皇および神功皇后に仕えたことがわかる。次に古事記を確認してみる。古事記でその名が登場するシーンは次の通り、全部で9カ所ある。


孝元天皇段
孝元天皇と伊迦賀色許売命の子である比古布都押信命が木國造の祖先である宇豆比古の妹、山下影日売を娶ってできた子が建内宿禰である。建内宿禰の子は男7人、女2人の全部で9人である。波多八代宿禰は波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖先で、許勢小柄宿禰は許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖先である。また、蘇賀石河宿禰は蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣らの祖先である。次に平群都久宿禰は平群臣、佐和良臣、馬御樴連らの祖先である。次に木角宿禰は木臣、都奴臣、坂本臣の祖先である。次に久米能摩伊刀比売、次に怒能伊呂比売、次に葛城長江曾都毘古は玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣らの祖先である。また、若子宿禰は江野財臣の祖先である。

成務天皇段
成務天皇は近江国の志賀の高穴穗宮で天下を統治した。そして建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定め、国々の境界と大縣・小縣を定めた。

仲哀天皇段
仲哀天皇が筑紫の香椎宮にいて熊曽国を討とうとしたとき、神功皇后が神懸りをしたので、天皇は琴を弾き、建内宿禰大臣は祭場にいて神託を行なった。西方の国を授けようという神のお告げを受け入れようとしない天皇はその場で崩御した。

建内宿禰が再び神託を求めると、神は「この国は皇后の胎内の子が治めるべき」と告げた。建内宿禰はその子が男であることを確認し、神の名を問うと、天照大御神の御心を伝える神は住吉の三大神であると告げた。

建内宿禰は太子(のちの応神天皇)を連れて越前の敦賀に出向いたとき、そこに鎮座する気比大神と太子は名前を交換した。

太子が敦賀から戻ったときに神功皇后は祝いの酒を差し上げて歌った。このとき、建内宿禰が太子に代わって歌を返した。

応神天皇段
太子の大雀命(のちの仁徳天皇)は父が日向から召し上げた髪長比売を欲しいと建内宿禰大臣を通じて願い出たところ、許しが得られた。
 
新羅人が渡来したとき、建内宿禰は渡来人を率いて堤防を設けた百済池を作った。

仁徳天皇段
天皇が日女島にいたときに雁が卵を産んだので建内宿禰を呼び寄せ「雁が卵を産むのを聞いたことがあるとか」と歌で問うたところ、建内宿禰は「聞いたことがない」と歌で答えた。



古事記で特筆すべきは、孝元段の誕生にまつわる話の後段部分で、建内宿禰が波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏など、大和の大豪族たちの始祖であることに触れている点である(江野財臣は越前国江沼郡を本拠地とした江沼氏とされる)。また、これらの氏族から後裔が27氏族に枝分かれしていったことも記される。どこまでが事実であるかわからないが、古事記における建内宿禰にまつわる話でもっとも押さえておくべきことと考える。

そして大雀命が髪長比売を欲する場面を除き、詳細の部分で違いがあるものの、ほぼ同様の、あるいは関連することが日本書紀にも見られる(髪長比売の話についても武内宿禰は登場しないものの、日本書紀に同様の記載がある)。武内宿禰の誕生の話、大臣に任命された話、神託に関わった話、誉田別皇子(のちの応神天皇)を連れて敦賀へ行った話、敦賀から戻った際の酒宴の話、池を作った話、雁が卵を産む話、などである。したがって、以降はより詳しく記されている日本書紀にもとづいて考察を進めていくこととする。









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