古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

物部氏を妄想する⑥(徐福の渡来)

2024年01月06日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑥(徐福の渡来)

物部氏は神仙思想に基づく首長霊祭祀を担う祭祀氏族でした。この神仙思想を日本列島に持ち込んだのはほかでもない徐福です。徐福は中国の秦時代の方士で本名は徐市(じょふつ)といいます。中国においても伝説の人物とされていましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。方士(ほうし)とは、瞑想、占い、気功、錬丹術、静坐などの方術によって不老長寿、尸解(しかい=羽化すること)を成し遂げようとした、つまり神仙になることを目指して修行した者のことです。

司馬遷が著した『史記』によると、秦の始皇帝は長生不老の霊薬を手に入れるために徐福を東方に派遣します。ところがこのときは神薬を得ることができずに帰国、始皇帝の怒りを買うものの懲りずに二度目の派遣を認めさせ、3,000人の童男童女や多くの技術者とともに五穀の種などを持って東方に船出します。神薬を得るために渡海したのだから、一行には徐福と同じ方士が多くいたことでしょう。しかし徐福は平原広沢を得て王となり秦に戻ることはなかったのです。一度目の派遣が紀元前219年、二度目が紀元前210年のことです。また、徐福の時代から約500年後に書かれた「三国志」呉書の呉王伝・黄龍2年(230年)の記述には「亶洲、在海中、長老伝言秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海、求蓬萊神山及仙薬、止此洲、不還。世相承有数万家」とあり、秦の時代に徐福が渡海した話が記されています。

日本各地にこの徐福にまつわる伝説が残っていますが、これらの中国史書の記録が全て創作とは思えず、また実際に中国で徐福村の存在が確認されたことから、日本における徐福伝説もまったくの創り話ではなく、何らかの史実や根拠に基づいて生まれたものと考えることができそうです。つまり、徐福は日本へ来たということです。私が書籍やWebサイト(できるだけ公的な機関によるもの)で伝承の内容まで確認できた徐福伝承地が下表および下図です。北は青森県から南は鹿児島県まで、日本海側、太平洋側を問わず日本全国で30か所になります。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑥(徐福の渡来)


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