2023年4月22日、ツアー2日目のつづき。
2日目は朝から、渋野丸山古墳、大代古墳、宝幢寺古墳、天河別神社古墳群と見てきて、次はこの旅で一番楽しみにしていた萩原墳墓群です。前方後円墳をはじめとする様々な思考において何度も登場する遺跡なので一度は見ておきたいと、と思っていたところです。
天河別神社古墳群のとなりの尾根、距離にして200mほどのところです。
(さぬき市古墳勉強会のサイトよりお借りしました)
1号墓はこの場所でしたが、残念ながら手前の道路を建設する際に破壊されました。また、そのときに尾根の先端も削られたものと思われます。2号墓はこの丘の上です。
前日、レキシルとくしま(徳島県立埋蔵文化財総合センター)で1号墓の出土品や写真を見たのと、宝幢寺の境内に移築された石室を見ておいたので、想像の世界で復元しました。
2号墓が尾根の上に残っており、南側の尾根先端部に前方部を向けています。1号墓・2号墓ともに弥生時代終末期の3世紀前葉の築造とされます。
急な登り坂を上がっていくと頂上付近で礫が崩れ落ちるように散乱していました。積石に使われていたものかな。
埋葬施設があったと思われる部分に東西方向に礫が積まれていて、いかにもという感じです。上は南側(前方部側)から、下は北東側から撮った写真。
おそらく前方部と思われるところ。上の礫が積まれた部分以外は何が何だかよくわからない状態です。
後円部先端の一段下がった位置から。1mほどの高低差があるので、これが墳丘の高まりなのでしょうか。
写真をいっぱい撮ったものの、あとで見てみると真ん中の埋葬施設部分以外はどこを撮ったのやらよくわからない。南側の木々の間から徳島平野が見えたのが印象的でした。
2号墓の重要な特徴は、積石塚であることはもちろんですが、前方後円形の墳墓であること、石囲いの埋葬施設をもっていたこと、3世紀前葉の築造であること、石材から採取された朱が中国産であると判明したこと、などです。
ここの石囲いの埋葬施設が隣の天河別神社1号墳に、前方後円形が4号墳に受け継がれました。さらに3世紀中頃の纒向のホケノ山古墳がそれらの特徴を備えていることから、阿波とヤマトの強い関係が想定されています。
ただ、現地を見た印象としてそれらを実感することができませんでした。墳丘の範囲や形などが現在の状況と比較できる形で説明したものがここにあれば、あるいは、せめて前方後円形がわかるように少し復元しておいてくれれば、と思いました。さらに、調査時の資料などを検索しても見つけることができませんでした。とはいえ、阿波や讃岐とヤマトの関係をしっかり考えてみたい衝動にかられているので、近いうちに時間をかけて調べてみようと思います。
かなりの消化不良、後ろ髪を引かれる思いでここを離れ、少し早い目のランチを取ることにしました。岡田さんおすすめの徳島ラーメンを食べようということになって、Googleでヒットした「やまふく」というお店に入りました。
少し味の濃いラーメンでしたがしつこくなく、美味かったです。さて、ここから吉野川に沿って西に1時間と少し走って到着したのが徳島県三好郡、吉野川北岸の足代東原遺跡。1基の前方後円形積石墓と36基以上の小型円形積石墓からなっている弥生時代後期から終末期の積石墓群です。
前方後円形積石墓は全長16.5m、主体部は未発掘であるものの組合せ石棺と推定されています。現地に立っていたふたつの説明板はいずれも東みよし町教育委員会によるものですが、一方は弥生時代終末期の築造とし、もう一方は古墳時代初頭となっていて見解が揺れているようです。東みよし町のサイトでは後者の見解をもとに最古の積石塚古墳としています。同じ場所に立つ同じ機関による説明板としては混乱を招くだけなので改善を望むところです。
前方後円形の積石塚はたしかに形はその通りなんだけど、とくに前方部にあたる部分は積石というよりも石を敷き詰めただけという感じ。これを古墳というのは少し無理があるなあ。
円形墓群は直径1.2m程度のものと2.5m前後のものに大別され、出土した土器から前方後円形積石墓よりも少し早い弥生時代後期末の築造とされます。
前方後円墳の原形が3世紀初頭の萩原2号墓とされ、それが3世紀前半あるいは中頃に東方面の大和において同じような墳墓が形成され、反対側の西方面ではこの東原遺跡が形成された、と考えればいいのだろうか。それにしてもこのあたりに3世紀の前方後円形の墳墓はほかに見当たらないようです。4世紀に入ると吉野川の対岸に全長35mの丹田古墳が出現するのですが。
吉野川中流の辺鄙なこの場所に弥生時代の前方後円形の墳墓があることに少し違和感を抱きながら次の目的地に向かいました。次は阿讃山脈を越えて再び讃岐の地に入ります。
(つづく)
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
2日目は朝から、渋野丸山古墳、大代古墳、宝幢寺古墳、天河別神社古墳群と見てきて、次はこの旅で一番楽しみにしていた萩原墳墓群です。前方後円墳をはじめとする様々な思考において何度も登場する遺跡なので一度は見ておきたいと、と思っていたところです。
天河別神社古墳群のとなりの尾根、距離にして200mほどのところです。
(さぬき市古墳勉強会のサイトよりお借りしました)
1号墓はこの場所でしたが、残念ながら手前の道路を建設する際に破壊されました。また、そのときに尾根の先端も削られたものと思われます。2号墓はこの丘の上です。
前日、レキシルとくしま(徳島県立埋蔵文化財総合センター)で1号墓の出土品や写真を見たのと、宝幢寺の境内に移築された石室を見ておいたので、想像の世界で復元しました。
2号墓が尾根の上に残っており、南側の尾根先端部に前方部を向けています。1号墓・2号墓ともに弥生時代終末期の3世紀前葉の築造とされます。
急な登り坂を上がっていくと頂上付近で礫が崩れ落ちるように散乱していました。積石に使われていたものかな。
埋葬施設があったと思われる部分に東西方向に礫が積まれていて、いかにもという感じです。上は南側(前方部側)から、下は北東側から撮った写真。
おそらく前方部と思われるところ。上の礫が積まれた部分以外は何が何だかよくわからない状態です。
後円部先端の一段下がった位置から。1mほどの高低差があるので、これが墳丘の高まりなのでしょうか。
写真をいっぱい撮ったものの、あとで見てみると真ん中の埋葬施設部分以外はどこを撮ったのやらよくわからない。南側の木々の間から徳島平野が見えたのが印象的でした。
2号墓の重要な特徴は、積石塚であることはもちろんですが、前方後円形の墳墓であること、石囲いの埋葬施設をもっていたこと、3世紀前葉の築造であること、石材から採取された朱が中国産であると判明したこと、などです。
ここの石囲いの埋葬施設が隣の天河別神社1号墳に、前方後円形が4号墳に受け継がれました。さらに3世紀中頃の纒向のホケノ山古墳がそれらの特徴を備えていることから、阿波とヤマトの強い関係が想定されています。
ただ、現地を見た印象としてそれらを実感することができませんでした。墳丘の範囲や形などが現在の状況と比較できる形で説明したものがここにあれば、あるいは、せめて前方後円形がわかるように少し復元しておいてくれれば、と思いました。さらに、調査時の資料などを検索しても見つけることができませんでした。とはいえ、阿波や讃岐とヤマトの関係をしっかり考えてみたい衝動にかられているので、近いうちに時間をかけて調べてみようと思います。
かなりの消化不良、後ろ髪を引かれる思いでここを離れ、少し早い目のランチを取ることにしました。岡田さんおすすめの徳島ラーメンを食べようということになって、Googleでヒットした「やまふく」というお店に入りました。
少し味の濃いラーメンでしたがしつこくなく、美味かったです。さて、ここから吉野川に沿って西に1時間と少し走って到着したのが徳島県三好郡、吉野川北岸の足代東原遺跡。1基の前方後円形積石墓と36基以上の小型円形積石墓からなっている弥生時代後期から終末期の積石墓群です。
前方後円形積石墓は全長16.5m、主体部は未発掘であるものの組合せ石棺と推定されています。現地に立っていたふたつの説明板はいずれも東みよし町教育委員会によるものですが、一方は弥生時代終末期の築造とし、もう一方は古墳時代初頭となっていて見解が揺れているようです。東みよし町のサイトでは後者の見解をもとに最古の積石塚古墳としています。同じ場所に立つ同じ機関による説明板としては混乱を招くだけなので改善を望むところです。
前方後円形の積石塚はたしかに形はその通りなんだけど、とくに前方部にあたる部分は積石というよりも石を敷き詰めただけという感じ。これを古墳というのは少し無理があるなあ。
円形墓群は直径1.2m程度のものと2.5m前後のものに大別され、出土した土器から前方後円形積石墓よりも少し早い弥生時代後期末の築造とされます。
前方後円墳の原形が3世紀初頭の萩原2号墓とされ、それが3世紀前半あるいは中頃に東方面の大和において同じような墳墓が形成され、反対側の西方面ではこの東原遺跡が形成された、と考えればいいのだろうか。それにしてもこのあたりに3世紀の前方後円形の墳墓はほかに見当たらないようです。4世紀に入ると吉野川の対岸に全長35mの丹田古墳が出現するのですが。
吉野川中流の辺鄙なこの場所に弥生時代の前方後円形の墳墓があることに少し違和感を抱きながら次の目的地に向かいました。次は阿讃山脈を越えて再び讃岐の地に入ります。
(つづく)
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