八咫烏から賀茂氏へと話が展開する中で触れないわけにはいかないのが鴨三社である。三社とも訪ねたことがあるのでその時の印象を含めて順に確認しておこう。
■高鴨神社
高鴨神社は奈良盆地南西部の御所市鴨神にあり、主祭神として阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)またの名を迦毛之大御神(かものおおみかみ)、事代主命、阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)、下照姫命、天稚彦命の5神を祀っている。少し長くなるが、高鴨神社の公式サイトにある由緒を引用する。(明らかな誤字等は訂正した。)
この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。
『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、最高の社格をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。
弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。
このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。
『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の首長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。
この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。
こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中で大きく物語られています。高天原から皇室の御祖先である瓊々杵(ににぎ)尊がこの国土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますが、その中で本社の御祭神である味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・下照比売(したてるひめ)神・天稚彦(あめわかひこ)、さらに下鴨社の事代主(ことしろぬし)神が、国造りの大業に参劃されています。
御本殿には味耜高彦根神を主神とし、その前に下照比売神と天稚命の二神が配祀され、西神社には母神の多紀理毘売(たぎりびめ)命が祀られています。古くは味耜高彦根神と下照比売神の二柱をまつり、後に神話の影響を受けて下照比売の夫とされた天稚彦、また母神とされた多紀理毘売を加え、四柱の御祭神となったものと考えられます。 (引用終わり)
鴨族はおそらく弥生時代以前より海のないこの葛城の地に定住して農耕中心の生活を始めたと思われる。阿治須岐詫彦根命の「阿治須岐」とは美しい農具で開墾することを表す形容詞であり、農耕の神として祀られたものと言われている。また、阿遅鋤高日子根神とも表記され、「鋤」の字が含まれることからも農耕神であることがわかる。この神は記紀で大国主神の子、すなわち出雲系の神とされる。鴨氏(賀茂氏)と出雲、葛城の関係についてはあとで整理してみる。
それにしてもこの由緒には大胆なことが記されている。神武天皇が建てた王朝(葛城王朝)はその後の8人の天皇を経た後、崇神天皇の大和朝廷によって滅ぼされたとある。これは歴史家や研究者が述べることであって神社の由緒としては適切ではないように思うが、この文章からは神武を助けて葛城王朝の建国に大きな貢献を果たし、その後も天皇家外戚となったプライドと、崇神によってそれを挫かれたことに対する怨念すら感じてしまう。従一位に神階を得たこと、有名な上賀茂・下鴨の両社をも従える全国賀茂神社の総社であること、なども強い意志をもった主張を行間に感じる。祭神についても「主祭神の阿治須岐高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され、この大御神と名のつく神様は天照大御神・伊邪那岐大御神と三神しかおられず、死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。」と説明されている。古来より高貴なプライドが脈々と受け継がれてきたのだろう。
■鴨都波神社
鴨三社の2つめが鴨都波神社。主祭神は積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)と下照姫命。高鴨神社の由緒には、弥生中期に鴨族の一部は葛城東麓の丘陵地から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめた、とある。一般には高鴨神社に対して下鴨社と呼ばれている。なお、積羽八重事代主命は事代主神と同一であると考えられている。
この一帯は弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡である鴨都波遺跡があり、この神社はその遺跡の上にある。弥生中期後半の灌漑施設と考えられる大規模な護岸水路が見つかり、ここで稲作農耕が行われていたことが明らかとなった。この集落遺跡が弥生前期からのものであること、この近くにも京奈和自動車道の建設に伴って発見された国内最大規模となる2万平米にもわたる弥生前期の水田跡である中西遺跡があること、などから考えると、高鴨神社由緒にある「弥生中期に丘陵地から移ってきた」というのが本当であったかどうかが疑わしい。順番はむしろ逆ではないかと考える。
それにしても、出雲の国譲りの場面で大己貴神(大国主神)の子として登場し、大己貴神に代わって国譲りを承知した事代主を祀るとはどういうことだろうか。高鴨神社に祀られる味耜高彦根神も同様に大国主神の子であった。この葛城一帯にいた鴨氏と京都山城の賀茂氏はまったく別の氏族であるとも考えられているが、やはり鴨氏(賀茂氏)と葛城、出雲の関係を解いていかねばならない。
■葛木御歳神社
3つめが葛木御歳神社。祭神は御歳神(みとしのかみ)。神社由緒によると、「歳」は「トシ」であり、穀物、特に稲またはその実を意味する古語で、御歳神は稲の神、五穀豊穣をもたらす神だったという。高鴨神社と鴨都波神社の中間に位置することから、中鴨社と呼ばれている。高鴨神社由緒によると「東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入った」とある。古事記には、須佐乃男命と神大市比売(かむおおいちひめ、大山津見神の娘)の子である大年神(おおとしのかみ)と香用比売(かよひめ)の間に産まれた子、すなわち須佐乃男命の孫であるとされる。書紀にはこれに該当する記述はないが、ここでも出雲との関わりが確認される。
以上、鴨三社を順に見てきたが、私にはいくつもの疑問が生じた。奈良盆地の南西、盆地の最深部といっていい葛城の地になぜ出雲と関わりのある神々が祀られているのか、この神々を祀る鴨族(鴨氏)は何者で、葛城氏とどんな関係だったのか、そもそも葛城氏とは何者か、そして高鴨神社由緒に書かれていることはどこまでが事実なのか、などなど。神武東征を順に追いかけてきたが、ここでさらに寄り道をしてこれらの疑問(古代史の最大の謎と言えば言い過ぎか)を探ってみたい。
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■高鴨神社
高鴨神社は奈良盆地南西部の御所市鴨神にあり、主祭神として阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)またの名を迦毛之大御神(かものおおみかみ)、事代主命、阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)、下照姫命、天稚彦命の5神を祀っている。少し長くなるが、高鴨神社の公式サイトにある由緒を引用する。(明らかな誤字等は訂正した。)
この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。
『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とみえ、月次・相嘗・新嘗の祭には官幣に預かる名神大社で、最高の社格をもつ神社でありました。清和天皇貞観元(859)年正月には、大和の名社である大神神社や大和大国魂神社とならんで従二位の御神階にあった本社の御祭神もともに従一位に叙せられましたが、それほどの由緒をもつ古社であります。
弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。
このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。
『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の首長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。
この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。
こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中で大きく物語られています。高天原から皇室の御祖先である瓊々杵(ににぎ)尊がこの国土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますが、その中で本社の御祭神である味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・下照比売(したてるひめ)神・天稚彦(あめわかひこ)、さらに下鴨社の事代主(ことしろぬし)神が、国造りの大業に参劃されています。
御本殿には味耜高彦根神を主神とし、その前に下照比売神と天稚命の二神が配祀され、西神社には母神の多紀理毘売(たぎりびめ)命が祀られています。古くは味耜高彦根神と下照比売神の二柱をまつり、後に神話の影響を受けて下照比売の夫とされた天稚彦、また母神とされた多紀理毘売を加え、四柱の御祭神となったものと考えられます。 (引用終わり)
鴨族はおそらく弥生時代以前より海のないこの葛城の地に定住して農耕中心の生活を始めたと思われる。阿治須岐詫彦根命の「阿治須岐」とは美しい農具で開墾することを表す形容詞であり、農耕の神として祀られたものと言われている。また、阿遅鋤高日子根神とも表記され、「鋤」の字が含まれることからも農耕神であることがわかる。この神は記紀で大国主神の子、すなわち出雲系の神とされる。鴨氏(賀茂氏)と出雲、葛城の関係についてはあとで整理してみる。
それにしてもこの由緒には大胆なことが記されている。神武天皇が建てた王朝(葛城王朝)はその後の8人の天皇を経た後、崇神天皇の大和朝廷によって滅ぼされたとある。これは歴史家や研究者が述べることであって神社の由緒としては適切ではないように思うが、この文章からは神武を助けて葛城王朝の建国に大きな貢献を果たし、その後も天皇家外戚となったプライドと、崇神によってそれを挫かれたことに対する怨念すら感じてしまう。従一位に神階を得たこと、有名な上賀茂・下鴨の両社をも従える全国賀茂神社の総社であること、なども強い意志をもった主張を行間に感じる。祭神についても「主祭神の阿治須岐高日子根命は亦の御名を迦毛之大御神と申され、この大御神と名のつく神様は天照大御神・伊邪那岐大御神と三神しかおられず、死した神々をも甦えらせる事ができる御神力の強き神様であります。」と説明されている。古来より高貴なプライドが脈々と受け継がれてきたのだろう。
■鴨都波神社
鴨三社の2つめが鴨都波神社。主祭神は積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)と下照姫命。高鴨神社の由緒には、弥生中期に鴨族の一部は葛城東麓の丘陵地から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめた、とある。一般には高鴨神社に対して下鴨社と呼ばれている。なお、積羽八重事代主命は事代主神と同一であると考えられている。
この一帯は弥生時代前期から古墳時代後期にかけての集落遺跡である鴨都波遺跡があり、この神社はその遺跡の上にある。弥生中期後半の灌漑施設と考えられる大規模な護岸水路が見つかり、ここで稲作農耕が行われていたことが明らかとなった。この集落遺跡が弥生前期からのものであること、この近くにも京奈和自動車道の建設に伴って発見された国内最大規模となる2万平米にもわたる弥生前期の水田跡である中西遺跡があること、などから考えると、高鴨神社由緒にある「弥生中期に丘陵地から移ってきた」というのが本当であったかどうかが疑わしい。順番はむしろ逆ではないかと考える。
それにしても、出雲の国譲りの場面で大己貴神(大国主神)の子として登場し、大己貴神に代わって国譲りを承知した事代主を祀るとはどういうことだろうか。高鴨神社に祀られる味耜高彦根神も同様に大国主神の子であった。この葛城一帯にいた鴨氏と京都山城の賀茂氏はまったく別の氏族であるとも考えられているが、やはり鴨氏(賀茂氏)と葛城、出雲の関係を解いていかねばならない。
■葛木御歳神社
3つめが葛木御歳神社。祭神は御歳神(みとしのかみ)。神社由緒によると、「歳」は「トシ」であり、穀物、特に稲またはその実を意味する古語で、御歳神は稲の神、五穀豊穣をもたらす神だったという。高鴨神社と鴨都波神社の中間に位置することから、中鴨社と呼ばれている。高鴨神社由緒によると「東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入った」とある。古事記には、須佐乃男命と神大市比売(かむおおいちひめ、大山津見神の娘)の子である大年神(おおとしのかみ)と香用比売(かよひめ)の間に産まれた子、すなわち須佐乃男命の孫であるとされる。書紀にはこれに該当する記述はないが、ここでも出雲との関わりが確認される。
以上、鴨三社を順に見てきたが、私にはいくつもの疑問が生じた。奈良盆地の南西、盆地の最深部といっていい葛城の地になぜ出雲と関わりのある神々が祀られているのか、この神々を祀る鴨族(鴨氏)は何者で、葛城氏とどんな関係だったのか、そもそも葛城氏とは何者か、そして高鴨神社由緒に書かれていることはどこまでが事実なのか、などなど。神武東征を順に追いかけてきたが、ここでさらに寄り道をしてこれらの疑問(古代史の最大の謎と言えば言い過ぎか)を探ってみたい。
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