3世紀初め(200年~220年)に摂津、大和、近江において前方後円形の壺形古墳が誕生しました。続いてほぼ同時期に河内、近江、東海で前方後方形の壺形古墳も誕生しました。大和においてはその後、少し時間を置いた3世紀中頃(250~270年)にホケノ山古墳、纒向矢塚古墳と立て続けに前方後円形の壺形古墳が造られ、3世紀後半(270年~300年)の箸墓古墳の築造へと続いていきます(なお、それぞれの築造年代はこれまでの話と整合性をとるために植田文雄氏の年代比定に従っています)。この箸墓古墳は定型化された最初の古墳とされ、これ以降、前方後円形の壺形古墳がヤマト王権の大王墓として採用されます。大王家がなぜ前方後方形ではなく前方後円形の壺形古墳を選択したのでしょうか。
天は円形で神の住む空間、地は方形で人の住む空間、円の宇宙観が地を包み込むという古代中国の天円地方の観念を墳丘の形に反映させたとする説があります。まさに大王家の墓に相応しい思想だと思いますが、中国の歴代王朝の墓にこの形は見いだせないそうです。また、天円地方の観念であるなら前方後円墳ではなく上円下方墳となるのが自然ですがそうではない。壺形古墳説に対して、考古学からの裏付けがとれないとの批判が見受けられますが、天円地方の観念が墳形に表現されたことが考古学的に裏付けられているのでしょうか。
植田氏によれば、四角形には正面(正座)があり、支配するものとされる者、指示する者とされる者、持つ者と持たざる者の対立関係が内在するとされ、方形周溝墓が出現した時期は稲作の導入によって社会が階層化した時期と重なることから、稲作によってうまれた富める者の墓は主に四角形の方形周溝墓だったということです。しかし、この考えに基づくならば大王墓は円形由来ではなく方形由来の壺形古墳、すなわち前方後方墳でなければなりません。氏はもう一方の円形については、その対角線は中心を通る限り等距離にあり、車座の会議に主客の別がなく、円形墓は貧富の差や階級社会に達していない段階の墓であるとし、円形周溝墓に縄文時代の伝統を見出そうとしますが、大王家が平等、対等、融和といった概念をもとに円形由来の壺形古墳を選択したとは思えません。
大陸から渡来して神仙思想を広めた徐福一行の末裔が、通路部のある円形周溝墓、あるいは方形周溝墓から着想を得て創出した墓が壺形古墳なので、大王家が円形由来を選択した理由を周溝墓に求めてみるのも一案だと思います。円形周溝墓と方形周溝墓の両者を比較したときに明らかな差異がいくつかあります。ひとつは分布域。方形周溝墓は関東以西の各地に万遍なく見られるのに対して、円形周溝墓は吉備、播磨、摂津、讃岐、阿波といった東部瀬戸内地域にほぼ限定され、それ以外の地域においてはあったとしても単発的に見られる程度です。ふたつめが検出された数。方形周溝墓は全国で発見された数が1万基以上とされているのに対して、円形周溝墓は数百基程度と言われています。三つめが埋葬の状況。方形周溝墓は2人以上の複数埋葬が多く、円形周溝墓は1人のみを埋葬する単数埋葬が基本とされています。方形周溝墓も弥生時代を通じて単数埋葬が見られますが、基本は1~3人の少数埋葬だったものが特に弥生中期後葉以降は5人以上の複数埋葬が増える傾向が認められます。そして四つめに方形周溝墓は密集して造営されるケースが多くみられる一方、円形周溝墓が密集するケースはあまり見られません。
この比較をもって大王家が円形由来の壺形古墳を選択した理由を推測するとすれば、たとえば、円形周溝墓が集中的に分布する東部瀬戸内地域に大王家の出自を求める可能性が考えられます。箸墓古墳からは吉備の特殊器台・特殊壺が出ていますし、『日本書紀』には孝霊天皇の子の吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)や吉備臣の始祖である稚武彦命のことが記され、『古事記』にも吉備臣らの祖である若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女が景行天皇の后になったことなどが記されることから、大王家が吉備とつながりがあったことは明白ですが、大王家の出自が吉備を始めとする東部瀬戸内地域にあることを示す考古資料や文献資料はありません。また、吉備では円形周溝墓の造営は弥生中期初頭までで、それ以降は造られなくなります。
一方で円形墓は播磨から摂津、北河内、さらには中河内を経由して大和へと伝播したと考えられるので、東部瀬戸内地域とは関係がないとすれば、三つめの相違点である円形周溝墓が単数埋葬を基本としていることにその理由を求めてはどうでしょうか。単数埋葬が基本ということはその地域の有力者の墓である可能性が高いと考えられます。さらに四つめの相違点である密集して造営されるケースが少ないことも合わせて考えると、その可能性はさらに高まります。円形周溝墓は地域の有力者の墓、すなわち首長墓として創出された墓制だと言えます。もちろん、方形周溝墓に首長が埋葬されるケースもあるはずですが、方形周溝墓は複数埋葬が多い点から家族墓や親族墓という見方が優勢です。
伝統的に方形墓が主体であった大和において、河内を経由して入ってきた円形周溝墓に由来する壺形古墳が大王家の墓として選択されたのは、円形周溝墓が首長墓として創出された墓であり、大王の墓に最適であったことが理由です。また、出雲の四隅突出型墳丘墓や北近畿の方形貼石墓や方形台状墓など、主に方形の首長墓を造っていた大和以外の地域への牽制の意味もあったのかもわかりません。
(つづく)
<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「伊勢湾周辺地域における方形周溝墓の埋葬施設」 宮脇健司
「播磨の弥生墓 -方形周溝墓と円形周溝墓-」 赤穂市立有年考古館
「有年牟礼・山田遺跡現地説明会資料」 赤穂市教育委員会
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
天は円形で神の住む空間、地は方形で人の住む空間、円の宇宙観が地を包み込むという古代中国の天円地方の観念を墳丘の形に反映させたとする説があります。まさに大王家の墓に相応しい思想だと思いますが、中国の歴代王朝の墓にこの形は見いだせないそうです。また、天円地方の観念であるなら前方後円墳ではなく上円下方墳となるのが自然ですがそうではない。壺形古墳説に対して、考古学からの裏付けがとれないとの批判が見受けられますが、天円地方の観念が墳形に表現されたことが考古学的に裏付けられているのでしょうか。
植田氏によれば、四角形には正面(正座)があり、支配するものとされる者、指示する者とされる者、持つ者と持たざる者の対立関係が内在するとされ、方形周溝墓が出現した時期は稲作の導入によって社会が階層化した時期と重なることから、稲作によってうまれた富める者の墓は主に四角形の方形周溝墓だったということです。しかし、この考えに基づくならば大王墓は円形由来ではなく方形由来の壺形古墳、すなわち前方後方墳でなければなりません。氏はもう一方の円形については、その対角線は中心を通る限り等距離にあり、車座の会議に主客の別がなく、円形墓は貧富の差や階級社会に達していない段階の墓であるとし、円形周溝墓に縄文時代の伝統を見出そうとしますが、大王家が平等、対等、融和といった概念をもとに円形由来の壺形古墳を選択したとは思えません。
大陸から渡来して神仙思想を広めた徐福一行の末裔が、通路部のある円形周溝墓、あるいは方形周溝墓から着想を得て創出した墓が壺形古墳なので、大王家が円形由来を選択した理由を周溝墓に求めてみるのも一案だと思います。円形周溝墓と方形周溝墓の両者を比較したときに明らかな差異がいくつかあります。ひとつは分布域。方形周溝墓は関東以西の各地に万遍なく見られるのに対して、円形周溝墓は吉備、播磨、摂津、讃岐、阿波といった東部瀬戸内地域にほぼ限定され、それ以外の地域においてはあったとしても単発的に見られる程度です。ふたつめが検出された数。方形周溝墓は全国で発見された数が1万基以上とされているのに対して、円形周溝墓は数百基程度と言われています。三つめが埋葬の状況。方形周溝墓は2人以上の複数埋葬が多く、円形周溝墓は1人のみを埋葬する単数埋葬が基本とされています。方形周溝墓も弥生時代を通じて単数埋葬が見られますが、基本は1~3人の少数埋葬だったものが特に弥生中期後葉以降は5人以上の複数埋葬が増える傾向が認められます。そして四つめに方形周溝墓は密集して造営されるケースが多くみられる一方、円形周溝墓が密集するケースはあまり見られません。
この比較をもって大王家が円形由来の壺形古墳を選択した理由を推測するとすれば、たとえば、円形周溝墓が集中的に分布する東部瀬戸内地域に大王家の出自を求める可能性が考えられます。箸墓古墳からは吉備の特殊器台・特殊壺が出ていますし、『日本書紀』には孝霊天皇の子の吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)や吉備臣の始祖である稚武彦命のことが記され、『古事記』にも吉備臣らの祖である若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女が景行天皇の后になったことなどが記されることから、大王家が吉備とつながりがあったことは明白ですが、大王家の出自が吉備を始めとする東部瀬戸内地域にあることを示す考古資料や文献資料はありません。また、吉備では円形周溝墓の造営は弥生中期初頭までで、それ以降は造られなくなります。
一方で円形墓は播磨から摂津、北河内、さらには中河内を経由して大和へと伝播したと考えられるので、東部瀬戸内地域とは関係がないとすれば、三つめの相違点である円形周溝墓が単数埋葬を基本としていることにその理由を求めてはどうでしょうか。単数埋葬が基本ということはその地域の有力者の墓である可能性が高いと考えられます。さらに四つめの相違点である密集して造営されるケースが少ないことも合わせて考えると、その可能性はさらに高まります。円形周溝墓は地域の有力者の墓、すなわち首長墓として創出された墓制だと言えます。もちろん、方形周溝墓に首長が埋葬されるケースもあるはずですが、方形周溝墓は複数埋葬が多い点から家族墓や親族墓という見方が優勢です。
伝統的に方形墓が主体であった大和において、河内を経由して入ってきた円形周溝墓に由来する壺形古墳が大王家の墓として選択されたのは、円形周溝墓が首長墓として創出された墓であり、大王の墓に最適であったことが理由です。また、出雲の四隅突出型墳丘墓や北近畿の方形貼石墓や方形台状墓など、主に方形の首長墓を造っていた大和以外の地域への牽制の意味もあったのかもわかりません。
(つづく)
<主な参考文献>
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「伊勢湾周辺地域における方形周溝墓の埋葬施設」 宮脇健司
「播磨の弥生墓 -方形周溝墓と円形周溝墓-」 赤穂市立有年考古館
「有年牟礼・山田遺跡現地説明会資料」 赤穂市教育委員会
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