ここで私が饒速日命の大和での拠点であると考える唐古・鍵遺跡について確認しておこう。唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部にあたる奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵にある弥生時代の環濠集落遺跡である。現段階で確認されている遺跡面積は約30万平方メートルで、規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、また、全国から翡翠や土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落と考えられている。現地で聞いたボランティアガイドの話も含めて以下に遺跡の変遷を追ってみる。
<弥生時代前期>
-遺跡北部・西部・南部の小高い丘(標高48m前後)に居住域が形成される。この頃には古代奈良湖は湿地帯になり、微高地では人が住める状況になっていた。
-各居住区から多数の鍬や鋤などの農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢など容器類の各種未製品の木製品が多数検出された。また、原石から完成品までの製作過程の石包丁が出土し、この石材は遺跡南方6キロにある耳成山の流紋岩であることが確認されている。このようなことから、集落の形成時期から様々な道具を作り、その周辺の地域に供給する集落であったと推定される。
-弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が検出された。この建物は西地区の中枢建物と推定される。
-稲穂の束や炭化米が出土し、多数の農耕具の出土と合わせて考えると遺跡周辺で稲作が行われていたことが推定される。ただし、水田跡は検出されていない。
-弥生前期末のものと考えられる木棺墓から検出された人骨が渡来系弥生人であることが確認された。放射性炭素分析による人骨の年代測定も弥生前期末葉という結果であったという。
<弥生時代中期>
-中期初頭に3か所の居住域周辺に環濠が巡らされる。
-西部居住域で大型建物が建築される。6m×13.7mの長方形の建物で床面積は82.2㎡。柱列は建物中央と東西両側の3列に並び、中央柱列は6本、東西両側の柱列は基本的に7本の柱がある。
-中期中葉に3か所の居住域の周りに大環濠を掘削し、一つの居住域に統合する。長径約500m、短径約400mの不整円形の環濠である。幅8m以上の大環濠とそれを囲むように4~5重に環濠が巡らされる多重環濠となっているが、どの環濠も深さはなく防御用ではなさそうである。
-集落の西南部に河内、近江、紀伊、伊勢など各地からの搬入土器が多く出土し、市的な場所があったと考えられる。
-南部で銅鐸片や銅鐸の鋳型外枠、銅鏃・銅剣などの鋳型、銅塊、銅滓、送風管など青銅器鋳造関連遺物や炉跡が出土し、周辺に青銅器の供給を行っていたことと、銅鐸による祭祀が行われていたことが想定される。
-北部では二上山産出のサヌカイト原石や剥片がまとまって出土した。
-これらにより、集落内には各種工人の居住場所あるいは工房跡があったと推定される。
<弥生時代中期後半>
-楼閣などの建物・動物・人物が描かれた多数の土器が検出され、土器に絵を描く風習があったことが確認される。(全国の絵画土器片の1/3がここで出土している。) 加えて、それぞれの絵が想像で描かれたとは考えにくいので、楼閣などが実際に存在したと思われる。
-中期後半から末にかけての洪水により環濠が埋没。
<弥生時代後期>
-洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。
-吉備の大型器台が発見され、吉備との交流が想定される。
<古墳時代以降>
-大環濠が消滅する。
-3か所の居住遺構や井戸が減少していることから居住域が縮小された。
-古墳時代中期に前方後円墳が築かれた。
-唐古氏、唐古南氏、唐古東氏の居館が築かれ、周辺が現在の鍵集落として発展する。
この遺跡を訪ねたときに現在の周囲の景色を取り払って唐古・鍵が最も栄えた弥生時代中期に身を置いてみた。ここは奈良盆地のど真ん中にあたり南東の方に三輪山が見える。弥生後期に入るとその麓に纒向の都市が誕生する。距離にして数キロ。今なら歩いてもすぐに到着する近隣地である。しかし弥生の当時、この周辺は奈良湖が干上がったあとの湿地帯であり、行く手をさえぎる幾筋もの川が流れていた。現代の感覚で隣り町のような捉え方をしないほうがいいと感じた。
石原博信氏はこの唐古・鍵の住民が弥生後期に纒向に移動したと書いているが、私は否定的に考える。奈良盆地のど真ん中で繁栄する都を捨ててわざわざ山沿いへ移る理由が今一つわからないのである。町が手狭になったとしても周囲に広げていけばいいだろうし、仮に移ったとしても以前の町を捨てる必要はないと思う。隣り町の感覚でいかにも両遺跡の住民が同族であったと考えるのは少し違うように感じた。纒向遺跡の所在地は奈良県桜井市、唐古・鍵遺跡は奈良県磯城郡田原本町であり、現在でも行政区域が異なっている。
唐古・鍵と纒向は別の一族の国であり、前者は丹後からやって来た饒速日命一族、後者は出雲からやってきた崇神一族。すでに書いたが、これが私の考えである。
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<弥生時代前期>
-遺跡北部・西部・南部の小高い丘(標高48m前後)に居住域が形成される。この頃には古代奈良湖は湿地帯になり、微高地では人が住める状況になっていた。
-各居住区から多数の鍬や鋤などの農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢など容器類の各種未製品の木製品が多数検出された。また、原石から完成品までの製作過程の石包丁が出土し、この石材は遺跡南方6キロにある耳成山の流紋岩であることが確認されている。このようなことから、集落の形成時期から様々な道具を作り、その周辺の地域に供給する集落であったと推定される。
-弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が検出された。この建物は西地区の中枢建物と推定される。
-稲穂の束や炭化米が出土し、多数の農耕具の出土と合わせて考えると遺跡周辺で稲作が行われていたことが推定される。ただし、水田跡は検出されていない。
-弥生前期末のものと考えられる木棺墓から検出された人骨が渡来系弥生人であることが確認された。放射性炭素分析による人骨の年代測定も弥生前期末葉という結果であったという。
<弥生時代中期>
-中期初頭に3か所の居住域周辺に環濠が巡らされる。
-西部居住域で大型建物が建築される。6m×13.7mの長方形の建物で床面積は82.2㎡。柱列は建物中央と東西両側の3列に並び、中央柱列は6本、東西両側の柱列は基本的に7本の柱がある。
-中期中葉に3か所の居住域の周りに大環濠を掘削し、一つの居住域に統合する。長径約500m、短径約400mの不整円形の環濠である。幅8m以上の大環濠とそれを囲むように4~5重に環濠が巡らされる多重環濠となっているが、どの環濠も深さはなく防御用ではなさそうである。
-集落の西南部に河内、近江、紀伊、伊勢など各地からの搬入土器が多く出土し、市的な場所があったと考えられる。
-南部で銅鐸片や銅鐸の鋳型外枠、銅鏃・銅剣などの鋳型、銅塊、銅滓、送風管など青銅器鋳造関連遺物や炉跡が出土し、周辺に青銅器の供給を行っていたことと、銅鐸による祭祀が行われていたことが想定される。
-北部では二上山産出のサヌカイト原石や剥片がまとまって出土した。
-これらにより、集落内には各種工人の居住場所あるいは工房跡があったと推定される。
<弥生時代中期後半>
-楼閣などの建物・動物・人物が描かれた多数の土器が検出され、土器に絵を描く風習があったことが確認される。(全国の絵画土器片の1/3がここで出土している。) 加えて、それぞれの絵が想像で描かれたとは考えにくいので、楼閣などが実際に存在したと思われる。
-中期後半から末にかけての洪水により環濠が埋没。
<弥生時代後期>
-洪水後に環濠再掘削が行われ、環濠帯の広さも最大規模となる。洪水で埋没したにもかかわらず、この期に再建された。
-吉備の大型器台が発見され、吉備との交流が想定される。
<古墳時代以降>
-大環濠が消滅する。
-3か所の居住遺構や井戸が減少していることから居住域が縮小された。
-古墳時代中期に前方後円墳が築かれた。
-唐古氏、唐古南氏、唐古東氏の居館が築かれ、周辺が現在の鍵集落として発展する。
この遺跡を訪ねたときに現在の周囲の景色を取り払って唐古・鍵が最も栄えた弥生時代中期に身を置いてみた。ここは奈良盆地のど真ん中にあたり南東の方に三輪山が見える。弥生後期に入るとその麓に纒向の都市が誕生する。距離にして数キロ。今なら歩いてもすぐに到着する近隣地である。しかし弥生の当時、この周辺は奈良湖が干上がったあとの湿地帯であり、行く手をさえぎる幾筋もの川が流れていた。現代の感覚で隣り町のような捉え方をしないほうがいいと感じた。
石原博信氏はこの唐古・鍵の住民が弥生後期に纒向に移動したと書いているが、私は否定的に考える。奈良盆地のど真ん中で繁栄する都を捨ててわざわざ山沿いへ移る理由が今一つわからないのである。町が手狭になったとしても周囲に広げていけばいいだろうし、仮に移ったとしても以前の町を捨てる必要はないと思う。隣り町の感覚でいかにも両遺跡の住民が同族であったと考えるのは少し違うように感じた。纒向遺跡の所在地は奈良県桜井市、唐古・鍵遺跡は奈良県磯城郡田原本町であり、現在でも行政区域が異なっている。
唐古・鍵と纒向は別の一族の国であり、前者は丹後からやって来た饒速日命一族、後者は出雲からやってきた崇神一族。すでに書いたが、これが私の考えである。
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