あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

涼しさの肌に手を置き夜の秋  虚子

2009-08-01 05:31:58 | 日記
昭和記念公園

花があまりない時期
公園にきた子どもたちは
水遊び用の服装に着替え
小川の水遊びを楽しんでいました。
自分たちで遊びを考えるたくましさ
きっと、この子たちはすぐれた
保育士に出あっているのだ。

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昭和記念公園で出会った保育園の子が
元気で楽しい。そこで意味不明な短歌?

汗しみるパンツ脱ぎたがる子は日焼けして歯だけ目立つ  あきオジ

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涼しさの肌に手を置き夜の秋  虚子

時には知的で技巧的な句もいいかもしれません。
でも、「だから、何だ」そんな感じも残る
後「は読者の見方いろいろ」と言いたがる解説者はどこかでに逃げている。
自分だけ分かるということなら俳句はちょっとなじめない。
だから、現代作家だけでなく、大部分はなじんでいないのです。

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今日の方代さん

いつのころから知るべくもなく真うしろに猫背のかげを落としてぞゆく

あんなこと、こんなことがあっただろうし、貧乏がいいとも思わないのですが、それでも満たされた人には、俳句は知的遊びであり、教養の表現だろう。
幸せの中にあり、豊かな環境の中で「俳句などいらない」生活になっている人のものではなく、俳句しかない、短歌しかないと思い詰めた人の作品には、人生が見えるし、見える景色が違っている。そんな見方ができる人の作品が好きです。

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今日の蕪村

軒に寝る人追う声や夜半の秋

夜になり、軒下で雨露をしのごうとする浮浪者を追い払うことが聞こえる。それだけしかない夜である。一入非常に聞こえる。
そんな句ですね。
寝るところもない浮浪者を俳句にしている残酷さもありますね。
この句から浮浪者への同情は見えてこない。
絵柄しかない。
蕪村がどこで見ているか想像すると
蕪村は芸術家だと思いますね。


朝の風

今の時代、人のこころをつかんでいるのは
歌詞です。
若者はロックの中に自分の言葉をぶつけるし
中高年は演歌に自分の人生を重ねている
特別の人でないかぎり
詩の世界にたどりつけない
いつの時代にか詩の方が意味不明の言葉の砦に逃げてしまった。
そんな気がするのです。
最近、好きな言葉はフォークの中にあり
ロックの中にあり
ときには映画の中にある。

現代俳句や短歌の中には、教養しか見えない。

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青きシャツ烏賊の如く天日干し  あきオジ

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夕べの風

家で同窓会の案内の発送準備をしていました。
年々数が減ってきます。
でも、1になるまで続けます。
もちろん、1は自分です。

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