あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

めでたさも御幣にのせる夏祭り  あきオジ

2010-08-08 18:17:43 | 日記
神主もイベントに乗せられ
ばつの悪そうな顔で歩いている。
そんなことする役割でもないだろうに・・・

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にくい顔思ひ出し石ころをける  放哉

小さい橋に来て荒れる海が見える  放哉

夕空みてから夜食の箸とる  放哉

(放哉は仕分けることに能力があり、哲学的に見えることがあります。そして最後は開き直り、山頭火はは清気弱ではっきりせず、最後は逃げ出してしまう。そんな決めつけ方は失礼だし、事実とは違うと思います。でも、二人は、もう、二人だけの存在ではなくなっているのですね。ですから、多少の誤解や偏見はお許しあれ、そんな感じですね。

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かつて第二芸術論争がありましが、私は桑原説に傾いていますね。そんなことどうでもいいのですが、自分を表現する形式は便利ですから、利用させてもらいますが、それ以上の事など期待するつもりはありません。素人は何もあれこれ考えずに、そのまま指で数えてつくるのがよいようですね。

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神輿担ぐ心意気さえ汗となり  あきオジ

2010-08-08 18:09:42 | 日記
輿を担ぐ女性は美しい。
単純にそう思う。
祭りを横眼で見ながら街を歩き
日のあるうちに帰宅しました。
たっぷり昼寝して
「阿波おどり」の中継番組をみて
終わりました。

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松はみな枝垂れて南無阿弥陀仏  山頭火

分け入っても分け入っても青い山  山頭火

笠にとんぼをとまらせてあるく  山頭火

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鬼平犯科帳を見て一日が始まり
剣客商売を見て一日が終わる。
そんな日曜日です。

苔生して貴さもなき墓となり  あきオジ

2010-08-08 17:41:04 | 日記
今日も祭りです。
三日目でしょうか
太鼓叩きもお疲れか
それとも一年を三日に凝縮させているのかもしれません。

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西行の庵もあらん花の庭  芭蕉

たのしさや青田に涼む水の音  芭蕉

春雨や欠伸をうつる門の犬  一茶

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毎日眠いですね。
何もない日は昼寝というよりうたた寝です。
それが気持ちいいです。

朝、早く起きるのはいいのですが
目覚めるのには時間がかかります。
中途半端におきるなら
寝ていた方がいいのかもしれません。

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今日の芭蕉「芭蕉百名言」山下一海著

多年俳諧好きたる人より、外の芸に達したる人、はやく俳諧に入る。

芸能人、経済人、学者等の人たちが俳諧にのめり込むこと、何となく分かります。
それだけでは、十分でなく、自分を磨き、自分を見つめる道として俳句を選んでいるように思えます。プロではないものが道として活用できる道、それが俳句であり、これまでも
多くの人がたしなんでいます。その作品がどうか知りませんが、俳人も歌人もその職業は多様で、医者、学者も大いに夫婦で活躍しているケースも多いですね。

足りない何かを表現する道具として俳句があるのですね。

写生と称する傍観的、客観的な姿勢と表現は
自己表現と距離をおいているので
思想も哲学も見せないですむ。
背景にはそんなものがあるように思えるのは深読み過ぎるのでしょうか。

来年も猛暑なるか今日も晴れ   あきオジ

2010-08-08 07:20:30 | 日記
太鼓は叩くのでしょうか
打つのでしょうか
どうでもいいことを考えましたが
その疑問だけで終わるのが私のスタイルです。
いままでもそうでしたし
これからもそうでしょう。

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白芥子や時雨の花や咲きつらん  芭蕉

鳩の声身に入(しみ)わたる岩戸哉  芭蕉

秋の夜を打ち崩したるはなしかな  芭蕉

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何もしない。
それもいいかもしれません。

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ごちゃごちゃと並べたてたつ夏祭り  あきオジ

2010-08-08 07:01:45 | 日記
祭ともなれば
何でもいいから売ってしまおう
そんな感じ

最近は露店のうさんくさい顔をして商売している人よりも
当たり前の商店で売っている人の方が元気がある。

でも、その胡散臭い人が売っている
怪しげなといったら失礼ですが
それなりの「お好み焼き」とか
「お面」などの方が
怪しさ分だけ楽しい。
射的などで遊ぶ若者なら最高

その危うさを楽しむのが祭りなのでしょうか。
元々祭りは「ケ」からの解放であるし
何でもありの一夜限りの装備だったのですから。

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破綻などないほうがいいにきまっている。
でも、破綻がない人生も味気ない。

人はわがままなのですね。
「今ある状態」に不満を語らないと
十分でない。

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うらうらほろほろ花がちる  山頭火

名もない草のいちはやく咲いてむらさき  山頭火

ともかく昼寝の枕一つもつ  山頭火

(山頭火の「しまらない」というか中途半端な展開、それをあれこれ言う人もいるのでしょうが、何度も読んでいるうちの、そこが魅力であり、惹かれる理由だと気づくことがあります。そのうち、きちんとした説明ができるかもしれませんが、そんなこと関係ない。気に入ればそれが私にとっての名句なのですから。)

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連打する太鼓も真夏に湧き上がる  あきオジ

2010-08-08 06:37:24 | 日記
地元の祭りの風景です。
少女らが太鼓をたたいている。
一生の思い出になるでしょう。

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冬木立五重の塔が聳えけり  子規

祇園会や二階の顔のうず高き  子規

椅子移す若葉の陰に空を見る。  子規

(子規の句はそれほど読んだわけではないのですが、あっさり形式を整え、軽々と表現している。そんな感じです。ですから、不器用さやこだわりが見えない分、「違うかな」そんな感じです。その世界では著名人であり、大天才なのでしょうが、何でもあり、全部ありの世界で、彼が存在したことで「俳句にすることがなくなった」と思う人もいたのではないでしょうか。)

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「原爆二重被爆」体験者のドキュメンタリーを見ました。
そんな時代に生きていた人もあり
その人の言葉を噛みしめる時代に生きた人もいるのですね。

しみじみ思うことは「正義の戦争」をあるものだと信じている限り戦争は消えない。
そして怨みの応酬からは何も生まれない。

私は時代の正義を信じはしなかった。
心の科学を信じはしなかった。
すべては次の世代に否定されながら進んだ。
「正しい」などとこえだかに言う人を遠目で冷たく見ていた。

「優しさ」「いたわり」を訴える人も同じように信じはしなかった。
彼らは危うい綱渡りの論理に立っていることを知らない。

そんなことを思ってきましたが
人は限りなくいいものです。
でこぼこで不器用で
それでいて、人生を肯定する人は
信じることができる。

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「西本願寺の修復」が話題となっています。
テレビで紹介されました。

貧しい親鸞の日々
その彼を忍ぶのが絢爛豪華な建物
障壁画、多分、そのほかにも・・・

どこでどのように
方向がずれてしまったのでしょうか。

一途に念仏を唱える老人たちが美しい。

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