あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

風呂に入る当たり前が遠くなり   あきオジ

2011-03-15 14:55:42 | 日記
何をするか
何もできない。

何に日常生活はそのまま続いている。
風呂に入ること
食事にすること
ベッドで寝ること
テレビを見ていること

それさえ、罪のように思える。

この思いが本来のことであり
我々は自分さえよければという
垢に汚染されている事実を
見て見ぬふりをしてきたつけなのだろう。

それを口にしないだけのこと

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もう一度当たり前の櫻かな  あきオジ

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悲しみを悲しめない涙かな  あきオジ

2011-03-15 14:49:41 | 日記
災害を素材にする俳句、短歌の募集があった。
何か勘違いしているような気もするが
長い目でみれば
必要なことかもしれない。

記憶すること
決して忘れないこと
それが必要なのだ。

冷静に、何が本当なのか見極めないと
感情的なものしか残らない。
悲しみは癒される。

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命の在り方を根源的に見つめることが何よりも大切なのです。
宗教界の人は何をしているか見つめれば何が確かなのか見えてくる。

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救世観音どこにおわす虚空だけ   あきオジ

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竹藪の願いさえも虚空なり  あきオジ

2011-03-15 14:44:37 | 日記
災害だけでなく原発も危ない。
安全神話が暴かれたような地震だった。
天災ではなく
天罰という言い方に批判もあるが
今は、そんなことを議論することはない。

しかし、そんなことに話題を置き換えたいような虚しさだ。

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「生きること」願う手にも雪がふり  あきオジ

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声もなく見つめる海に雪が降り  あきオジ

2011-03-15 07:21:47 | 日記
テレビ中継を見ると
泣き崩れる人が写っていないのですね。
泣くことも失って表情がないという見方もありますが
「現実を受け入れるしかない」という表情ともとれます。

それと「家が流された」という表現はありますが
「自分の命」というような見方をしていないようにも思えます。

命があっただけでもありがたいというのは、日本人の受け止め方なのでしょうね。

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これも海あのときの壁も海なのだ  あきオジ

2011-03-15 07:05:30 | 日記
このごろ、こまやかな観察をし
心配りをして楽しみ俳句が想起できません。
何もない時は何もないように
あったときはあったとき
そのように受け止めるべきなのですね。

この数日は、対応はしっかりしているつもりでも
どこかでふわふわした気持ちが揺れて
正面から凝視し発見すると言うような状態はありません。

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マッチ箱転がすように海動く  あきオジ

2011-03-15 07:01:51 | 日記
海が移動し、その力で全てがなぎ倒される。
そんな映像が繰り返し流されると
テレビ番組で紹介されるシュミレーションのようにしか見えない。

くりかえされると私の中で「マヒ」というか「慣れ」が生まれて
段々、感じなくなってしまうのですね。

きっと、残酷な事件の当事者も同じなのでしょうね。

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