あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

「おかえり」と迎えに出た子に励まされ  あきオジ

2011-09-16 20:20:56 | 日記
神代植物公園です。

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人々をしぐれよやどは寒くとも  芭蕉

山城へ井出の駕籠かるしぐれ哉  芭蕉

さればこそあれたきままの霜の宿  芭蕉

(馴れてくると芭蕉の句は語調が滑らかで、口にしたとき、違和感がありませんね。最近は書き写しながら、口でも読んでいます。それがいいですね。)

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下手な句を作っているとき、言葉が流れ、それが575に馴染んでいるときは、それなりの句ですね。思いが溢れて、勢いで句を作ろうとする時は、だいたいが75が先に浮かんでくるのです。それって、私だけの癖なのでしょうか。過不足なく表現するときには最初が大切なのでしょうね。)

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夕焼けの中に溶け込む親子かな  あきオジ

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芒野やささくれだった言葉消え  あきオジ

2011-09-16 20:03:17 | 日記
神代植物公園の槿です。
それぞれの国のそれぞれの歴史があり
その重さを感じているのでしょうね。

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鉄橋下岩散乱す昼寝覚め  飯田龍太

新しき色氷塊と真夏空  飯田龍太

春の川つめたき闇を遠くまで  飯田龍太

(このような句に、閉塞状態の俳壇が見えますね。素人の私には「何これ?」こんな複雑で神経質な表現してどうするの?ですね。このように現代は、過剰なまでに難解な表現を使うことがよく分かりますね。見えてこないのでしょうね。多分、このような著名な俳人が出たとしても、時代を掬う俳人ではありませんね。俳偕から俳句になったときのようなスタイルの創出があったようにスタイルの変革がなければ展開はないでしょうね。ましてや、季語に拘束される制限的なスタイルの偏重は芸事、お稽古事と同じですね。まあ、それだから徒弟制度が残り、裾野が広がっているのですから、それでいいじゃない。そんなことを思いますね。)

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短歌は完全に「演歌」「フォーク」等に表現の形式に移行したのでしょうね。
残されたのは伝統芸能
そんな感じですかね。
私も便乗して日記代わり短歌として利用させてもらっています。


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いつのまにコスモス気になる小川かな  あきオジ

2011-09-16 19:34:49 | 日記
神代植物公園です。
少々疲れが残り始めました。

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をそい月が町からしめ出されてゐる  放哉

木槿一日うなづいて居て暮れた  放哉

白い夾竹桃の花の下まいばん掃く  放哉

(「まいばん掃く」言葉として当たり前ですが、まいばんが新鮮ですね。私たちは「毎朝掃く」という言葉で固定化されていることが多いですからね。)

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今日もなにも起こらないただのおやじ  あきオジ

境涯を句にするほどの夕陽でもなく  あきオジ

(放哉のスタイルを真似するとこんな感じかなあ)

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下街は秋刀魚の匂いも包み込む  あきオジ

2011-09-16 06:52:13 | 日記
浅草です。
元気なときは何もかも新鮮に見えるのですが
元気がなくなると何もかも褪せて見えるようになりますね。

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秋風に金音高し志津屋敷  龍之介

山にほふ落葉に月のほがらかな  龍之介

中ぞらにかがよふ雪を青あらし  龍之介

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新しき朝を迎える芒かな  あきオジ

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「泥の河」が放映されますから録画しながら楽しみましょう。