既に存在しない遺構 近江大森山城腰郭城館群
城址見学をしていますと先日まで存在
していた遺構や遺跡が、今週にも既に
無くなっており城址見学を希望される
人には先週まで存在しましたがと断る
事が有ります。日本全国は遺跡だらけ
人類の歴史は創造と破壊を繰り返して
おりますので私は遺跡が壊れる事には
いつも傍観している立場の人間であり
遺跡保護活動の履歴は一切ありません。
遺跡保護の関するアドバイスの立場で
もありません。しかし大森城の腰郭は
どんな様な遺跡だと聞かれてお答えす
る時もあります。ただ私は公共事業の
計画のある場合はお答えはできません。
県外で私が発掘のアルバイトに関わる
場合も常識として是をブログや写真に
は絶対掲載しないで下さいと公務員様
に言われます。私は公共工事の進捗を
希望するタイプの人間ですから是非、
誤解の無いようお願い申し上げます。
先ず①②③④は現在の大森城の東方
の位地した腰郭です。大森城からの
落差/比高差は約15mほどの高い岸
になっておりました。①②②④の長
さは約60m以上ありました。⑤⑥⑦
と溝状のたて堀がありました。⑧は
規模の大きなたて堀で約10m巾です
。
⑧⑨と嶮しい竪堀になっていました。⑩は腰郭⑩
左に短い土塁や虎口の跡があれました。⑪は横矢
で⑪の右は虎口です。⑫も横矢で⑪⑫は1セット
になった相横矢ともいえましょう。⑫と⑬の間も
竪堀が存在しました。⑬は腰郭の中に設けられた
櫓台です。⑭これも削平地腰郭です。⑭から⑮に
到と堅固な土塁が存在しましたその高さ2㍍です。
⑮の土塁の左には犬走が存在しました。⑯は虎口
もしくは小規模な虎口です。23は建物基壇でその
排水路口が⑯と思われます。⑰⑱土塁に横矢があ
⑲はこの屋敷の正門と推定されるもので⑱と⑲と
⑳で喰い違い虎口の様式になっていました。24は
門の前面の武者溜りや外桝形に相当します。この
片の縄張りは信長家臣となった布施藤九郎の織豊
形城郭にも属す複雑なものです。25は枡形の外の
出口になってました。ここでこの曲輪「郭」は⑯
と⑲の2つの虎口を持つ非常に室町様式としても
格式の高い身分の高い人物の曲輪「郭」と思われ
ます。⑮から⑳までの長さは約36.6mと堂々たる
本格的に郭でした。21は深く掘削した工事がなさ
れていました。29たて堀です。22は⑲り蔀に相当
します。23は建物基壇。2、は2段の犬走りで⑲の
虎口全面を用意周到に防御しています。27たて土塁
26は溝です。26右は横矢。30は郭の跡です。31は
枡形です。32は土塁と櫓土塁です。42は溜池水堀
でした。曲輪「郭」です。34は横矢と土塁です。
35、36と土塁は続き横堀は37で堀止められいま
した。38は横矢と虎口40短い土塁て゛す。39は
左右に横矢を設けて虎口を防御していました。
この遺跡の全体規模は縮尺を参考にしても解
ると思いますが60間×60間つまり3600坪もある
起きな規模の遺跡でした。見学した人は一部
少数ですが驚くばかりの規模の大きいものです。
今回もう既に現地には存在せず工事も無いとの
事今回は紹介させて頂きました。通じ様私の
ブログは地図や遺跡も場所を明記していません。
これは林道工事が進捗する事を願っての事です。