佐和山城話題騒然!織豊城郭ビスタ論世間の話題騒然!
一般者
写真は現実と真実を写しだす現実だと
言う言葉に今更ながら驚いております。
私達山城探訪者や城址ハイキングの人
や歴史に詳しい人は遺構Dは興味あり
ません。まったくハイキング歴史探訪
趣味の人は遺構Dなど見学も観察も全く
しません。それは余計な事関係ない事。
対談者
しかし遺構Dは現実に現場に残ってる。
写真は真実を写しだす鏡なのですよ!
現実真実ありのままを写す意味が写真。
対談者
あなたは?
城や歴史を文字や言葉と考えています。
私はモノ現地遺跡が真実を語る証人と
考えております。現実現物のモノです。
対談者
長谷川先生!先生の織豊城郭ビスタ論
最近ものこの凄く話題沸騰してます!
長谷川
幻想や誤解です私の学説など支持
する人はゼロ。ブログ読者もゼロ!
対談者
でも安土城ビスタ論小牧山城ビスタ論
などどんな学者も気がついていません。
本当に長谷川先生を理解しているのは
社会に一名様は必ずおられます。もし
今度他の先生が織豊城郭ビスタ論を軽
く盗用して称えたら私達は長谷川先生
の理論のパクリのニセ者と見なします。
長谷川
私のブログは誰も読んでおられません。
対談者
あのう~私なんか軽率にも長谷川先生
が澤山城図を考察されていた事を全く
気にも止めていませんでした。唯の絵
としか見てません。天守や小天守配置
角度など全く気にも問題にもしてませ
でした。しかし私の考えは浅かった。
対談者
A基壇やC遺構の佐和山現地遺構の写真を見て
私は衝撃を受けてしまった。▼A基壇
遺構Bと遺構C▼現地写真
▼佐和山城現地C遺構写真の土塁
長谷川
絵図に放射線技巧がある事に
私も正直に驚いております。
絵図には廻り縁のある前記
望楼型天守と櫓の隅柱の露
出した慶長期豊臣系天守の
塔層が新旧二種類の天守が
絵画描写されている。現地
では2種類の時代の異なる
コビキAタイプとBタイプ
2種の瓦も採取されている。
長谷川
天守閣の正面は左右の鯱の中心を通る
線が正中線つまりセンターラインであ
るを、この絵画は語っている。つまり
一方の大手はもちのき谷「彦根方面」
を暗示しており石田三成屋敷伝承が
ある方面を示している可能性がある。
勿論現況では鳥居本方面の大手土塁
は城郭の正面を明確に示しているの
であるが、ある武将のある時期には
佐和山城の西山麓に旧芹川が外構の
堀の如く流れていた事は彦根築城以前
の古図からもうかがい知る事が出来る。
上図り古城に該当する場所が佐和山城
であり佐和山城西山麓は松原内湖に
なっていて彦根村は芹川のなんと東
に表現されている。古図の天守はこの
方向を正面、としていたと推測される。
1987年の私の鳥瞰図でも山頂の右側
つまり彦根市街側に集結縄張線私の
言うところのビスタ工法が存在した
可能性がある。勿論、鳥居本側にも
二ノ丸方面にも縄張をしていた様子
をうかがい知る事ができる。写真は
真実を写しだすものだ。本丸の右に
つまり、鳥居本側の本丸側面帯郭は
今でも明瞭に写真撮影する事が可能
であ。 ▼本丸東北方面帯郭写真。
現地を計測し澤山城絵図から推定すると
本丸は概ね、このような姿ではなかった
かと推測する。ご笑覧下さい。
また春になったら、みなさんと、お会いしたいと
思っております。楽しく遺跡見学を、長谷川博美。