若き織田信長の鉄砲連射
鉄砲は装填に時間を要して武器として
実践に通用しないと考えられていたが
『信長公記』村木砦の条に件の記録が
あり彼が早くから斬新な鉄砲連射方法
採用し実施しいた事が判明する。
「信長堀端に御座侯て、鉄炮にて、狭
間三ツ御請取りの由仰せられ、鉄砲取
間三ツ御請取りの由仰せられ、鉄砲取
りかへかえ放させられ、上総介殿御下
知なさるゝ間」と信長鉄砲連射指示の
記録が生々しく描写されている。
織田信長の発想とは、当時室町末期の
常人には有り得ない戦術発想であるが
やはり彼は早い!直裁的行動原理の人!
鉄砲の銃撃から身を護る為には土塁が
必須である銃撃戦が中心となると敵の
銃弾から身を護る装備「塀や土塁」と
身を隠す「身隠/武者隠し」塹壕が戦国
末期には登場する。そのような意味で
城郭見学において土塁を見学する事は
至極基本の基礎に相当する。その様な
意味で城郭見学者は別名城塁見学者と
も呼ばれて城跡を訪れる探訪組や観光
行楽組とは異なる城塁を検分する現実
派遺跡見学者とも言える。うつわ器が
あるから容器と言え。土塁があるから
くるわ土塁の輪が存在する。容器は縁
を認識する事。城郭は土塁や堀や切岸
を視認すると言う基本基礎が存在する。
家庭訪問して玄関や門やドアを知る事は
基本であり基礎である。城見学で玄関に
相当する虎口や枡形や土塁を教示しない
団体とは誠意や素朴な真心がない言える。
余呉城郭研究会の面々も東野山城土塁を
背に記念写真を撮影している基本の基本。
蒲生野の布施山城でも土塁は廻っている。
土塁を見学する事こそ城塁見学の基本だ。
現在は2020年だ賎ヶ岳の戦いは1583年だ
437年前の事だ。現代人の常識歴史観とは
437年前の土塁や城址が残らないと思う事
が常識であるが城址は悠久の歴史を刻んで
残っているのだ。土塁や堀を見ずして歴史
を語る事は真の歴史語りと言えないだろう。
↓著者作、滋賀県犬上郡佐目の山城跡俯瞰図。
↓玄蕃尾城「柴田勝家」1583年築城の城跡/著者作図