城郭 長谷川博美 基本記録

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小説 織田水上軍団 佐和山城代  丹羽五郎左衛門長秀憤慨する。

2020-02-22 13:10:43 | 小説
織田水上軍団 佐和山城代 丹羽五郎左衛門長秀憤慨する。

一般者
信長の安土城、光秀の坂本城、秀吉の長浜城
信澄の大溝城、この4城をびわこ織田軍団の
4城ネットワークと
解説された頭脳の明敏さに驚きます。
水の城4城織田四天王の古城交通理論。

丹羽長秀
ちょつと待ってくれますか?江州佐和山城は
私が城代。主君織田信長から私が任命された。
その証拠がこれです。

『信長公記』
元亀二辛未(1571年)の記録には
「佐和山城渡し進上の事
正月朔日、濃州岐阜にて各御出仕
これあり。二月廿四日、磯野丹波
降参申し、佐和山の城渡し、進上
して、高島へ罷り退く。則ち、
丹羽五郎左衛門を城代として入れ
おかれ候ひき。」

丹羽長秀
私は元々柴田、丹羽、羽柴、佐久間
の織田信長の四天王なんですよね。
それに我々織田軍団は河川の流れる
場所に城を作る人達です。古渡城、
清須城、小牧山城、岐阜城、そして
信長が約8カ月逗留した我佐和山城
これは全て水陸の交通の要衝です。
私が赴任していた頃の佐和山城の
南西には芹川がとうとうと流れて
松原内湖は広々とした湖が広がり
多数の舟も停泊し彼らは船舶の安全
祈願を願う為に大洞弁財天を崇敬
しました。簡単にいうなら水の神様。
水陸の要の城が佐和山城なんです。
佐和山城は水陸兼備の要衝の城です。
だから織田琵琶湖水上交通とは

①坂本城、
②大溝城
③長浜城
④佐和山城
⑤安土城

この五城だと考えて欲しいんです。
これこそ、五行思想だとか
信長を別にした四天王の4城
なんて事は言いませんが。。

一般者
でも佐和山城って松原は近いですが
水辺の城ってイメージ無いのです。

丹羽長秀
長浜の藤吉郎と佐和山の五郎左は志賀の
陣でも共に信長の宇佐山に救援に走る我ら
2人は長浜秀吉と佐和山長秀のコンビです。
それに信長が松原で琵琶湖を行く軍船
を作ったときも芹川と松原内湖のライン
で大船の造船を実施してます。織田軍
の水上交通のそれを言うならば佐和山
城を筆頭にあげるべきが順当でしょう。
その証拠がこれですよ。

丹羽長秀
往古佐和山内湖/松原内湖へと芹川が流れ
込んでこの水運を利用して織田信長は大舟を
建造している事も『信長公記』より判明する。
『信長公記』天正元年1573年の記述より

「五月廿二日、佐和山へ御座を移され、多賀・
山田・山中の材木をとらせ、佐和山の麓、
松原へ、勢利川通り引下し、国中の鍛冶・
番匠・杣を召し寄せ、御大工岡部又右衛
門棟梁にて、舟の長さ三十間、横七間、
櫓を百挺立たせ、艫舳に矢蔵を上げ、
丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かされ、
在佐和山なされ、油断なく、夜を
日に継ぎて仕り侯間、程なく、七月三日?、
出来吃んぬ。事も生便敷大船、上下耳
目を驚かすこと、案の如し。」

丹羽長秀
天正10年には信長休憩用の茶室も
作っています。
「佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門
一献進上」と『信長公記』にいあります。

私は天正10年には坂田郡番場まで
出張して織田信忠、徳川家康、
穴山梅雪の出迎え接待をして
おります。
その証拠がこれですよ。
『信長公記』天正10年

五月十四日、江州の内、ばんぱまで、
家康公・穴山梅雪御出でなり。
惟住五郎左衛門、ばんばに仮殿を
立ておき、雑掌を構へ、一宿振
舞申さるゝ。同日に、三
位中将信忠卿、御上洛なされ、
ばんば御立ち寄り、暫時御休息
のところ、惟住五郎左衛門、
一献進上侯なり。其の日、安土
まで御通侯ひキ。五月十五日、
家康公、ばんばを御立ちなされ、
安土に至りて御参着」とある。

一般様
惟住五郎左衛門ってだれですか?

丹羽長秀
惟住五郎左衛門は丹羽五郎左衛門
私の事です。

一般様
五郎左衛門さん解りました興奮し
ないで下さい。

丹羽長秀
あのう~安土安土水上交通の城と
言うならば、安土城築城の総普請
奉行を担当したのが私五郎左です。

一般様
五郎左衛門さんありがとうございます。

丹羽長秀
いいやまだ言いたいの!天正10年藤吉郎
と私は明智光秀に山崎破り勝利しました。
藤吉郎は私に坂本城を与えてくれました。
天正11年柴田勝家と戦う為に私は塩津や
海津に布陣してもしも賎ヶ岳に柴田侵攻
するなら私は塩津海津に琵琶湖から船に
乗って賎ヶ岳に登城しました。正直言っ
て賎ヶ岳佐久間玄蕃に取られる寸前で
した。私は少数ではあるが賎ヶ岳へと
乗り込んで五郎左着到と大声で叫んで
味方の志気を鼓舞した。すると藤吉郎
が美濃大垣から到着して我らは柴田軍
に大勝しました。これは私が佐和山城
時代か琵琶湖水軍を養成して水城坂本
城の城主になったればこそ成し得た事。
藤吉郎は私の琵琶湖水軍佐和山城代と
言う私のキヤリア持ち味を知れ尽して
いた。
一般者
解りました。貴方は四国渡海の準備も
信長から天正10年に命じられていた。
私は佐和山城が水辺の城で貴方が舟
を使う武将であると言う根本認識を
完全に忘れていました。佐和山と
松原を結ぶ百閒橋の存在も写真に
残っており佐和山が彦根松原が
水上交通の要だった事を忘れて
入ました。後に石田治部少輔が何故
佐和山城に強く固執したかも解ります。
丹羽長秀
私は近江の人々にあまりにも知られて
いません。私が鳥居本百々屋敷丸山砦
に陣どった事も虎御前山城にも昔は私
の陣場が存在した事も。
コメント (1)
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おうみ かんたん歴史 目からウロコ ころびの世界。

2020-02-22 09:26:03 | 比較研究論
おうみ かんたん歴史 目からウロコ ころびの世界。
一般様
長谷川先生!記事かなりマニアックですね?

長谷川
マニアックにしているのはマニアックなる
言葉つまり言霊を使って簡単素朴な学びの
世界を阻害してませんか?純粋素朴が大切。

子供
長谷川先生!
大原観音寺の鐘撞堂の柱は何故傾いてますか?

長谷川
それ四隅の柱を内側に向けて鐘楼が倒れない
様に工夫しているんです。ころびの技法です。


長谷川
二世紀の滋賀の遺跡の棟持柱も高床式
の建物が倒れないように古代の人達が
工夫してます。これ、ころび、の技術。

子供
かっこいい!両足でふんばってるね!

子供
おかあさん!彦根城に行きましょう。
あつこれは彦根城の天守は壁が斜めだ。
長谷川先生これも ころび ですね?

母親
馬鹿な事を言わない!私彦根生まれの
彦根育ちよ!彦根城の壁が傾いて設計
されているなんて聞いた事見た事ない。
長谷川
おかあさん。是非お子さんの素直な感性
を見習って下さい。お子さんの観察とは
正解なのです。彦根城隅柱が内側に傾い
た ころび 技法を使っている事は常識。
お子さんは素直です。ありのままを見学
する感性を大切にしてあげて下さいね。
子供や純粋な人は純粋ゆえに正直に気付
くストレートな観察力を本来持ってます。


長谷川
お城には土塁があると何度成人した大人に
千度話しても通用しません。土塁には高い
土塁も低い実際に土塁も現実にあるのです。
長谷川
佐和山城本丸の土塁を見学される人は
極めて城址見学としては普通の人です。
城址を見る目が開眼している普通の人。

長谷川
物を素直に見学する、人間本来のほのぼの
した、すなお、さに開眼される事が学門。
人は成長するにしたがって文字や社会の
ウワサや流行に惑わされ生きています。
長谷川
今度近江図書館、はにわ館の家形ハニワ
を素直な心てで素朴に純粋に観察する事。

子供とおかあさん
解ったわ!解ったよ!この建物壁はころび
で設計されています。解った解った埴輪の
壁が斜めに出来ている事に気付きました!
長谷川
それ、それ、それ、が学門の本質気付きなんです!
あなた達親子は学習から応用問題解いた人ですよ。
歴史って文字やお話だけが歴史研究じやないです。
紹介した分野は比較研究論や歴史大観の世界です。

長谷川
あなたが、城を見る心を持っているのか?
あなたが歴史の本質を看破する力あるか?
あなた本人次第なのですよ。
自転車に乗るのに理論書は不要です。
水泳練習座敷でしても泳げないです。
城に行っ、見て土塁に触ってみる事。

長谷川
城と中国で産まれた漢字なんです。
土+成=城これが素朴な基本です。
そもそも城を見ると言う事は土を
見る事が基本なんです。天正11年
北陸の猛将佐久間玄蕃盛政はこの
土塁の上に立って確実に近江湖北
を見つめていた事は事実で現実で
す。それを歴史通だと公言した人
が土塁の無い場所に行って、私は
佐久間の行市山砦に詳しい見たと
言い目の前の土塁にさえ気づかず
に通過されるのはどうかなと思う。
物事の本質を見据えて欲しいです。



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余呉城郭研究会様の評判

2020-02-22 08:49:55 | 小説
余呉城郭研究会様の評判

はじめに
私は当該研究会様の会員や
会長でない事を前提書かせ
て頂くとこの会員の諸氏の
志し非常に滋賀全体や湖北
全体の歴史観光地域振興に
根差した活動を展開されて
きた会、といえます。

その会風とは?
①滋賀北部僻地に存在する
古城史跡を全国に発信して
滋賀を興し長浜再発展する。

②史跡城址へ至る路や林道
を定期的に見回り倒木落石
を無償のボランテイア活動
を実施され奮闘努力された。

③遺跡見学する意義とは?
1 歴史城郭を学ぶ生涯学習的な要素=学術研鑚の要素
2 歩く事運動する事による体力維持=体力と健康促進
3 図面を見る。現地の城を見る事は=脳トレ要素あり
4 遺跡を認識して未来滋賀観光発展=歴史観光の発掘



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船舶櫓と城郭櫓の絵画的比較研究 岡部又衛門のこと

2020-02-22 06:39:41 | 比較研究論
船舶櫓と城郭櫓の絵画的比較研究 岡部又衛門のこと
はじめに
城郭天守の大工岡部又衛門が佐和山に在城
して織田信長も佐和山城に在城して船上に
櫓を構えた件は前投稿で既に述べている。
また岡部又衛門をウッキペデイアで検索
すると次のような文言が記されている。
「尾張の大工で、熱田神宮の宮大工の棟梁。
「岡部家由緒書」に拠れば、岡部家は室町
幕府将軍家の修理亮を勤めた家柄とされる。 
天正元年(1573年)に近江・佐和山の山麓
で長さ30間、幅7間、櫓100挺の大型軍船を
建造。天正3(1575年)、信長の熱田神宮
造営に被官大工として参加した。 
安土城築城では大工棟梁として、5重7階の
天守造営を子の岡部以俊(岡部又兵衛)と
共に指揮し、その功により織田信長より総大
匠司の位と日本総天主棟梁の称号を与えられ
小袖を拝領した。」とある岡部氏が天守や
軍船に関与した技術者である事がよく解る。 
一般に歴史民俗学的には城郭の丸と船舶の丸
は共通根が存在すると昔日から述べられてい
るが浅井長政最期の感状天正元年(1573年)
8月29日小谷城落城を目前にした浅井長政が、
片桐直貞宛に小谷籠城を感状においても長政
は最後に当方の丸ひとつ残り候。と小谷城
本丸の様子を簡潔に伝えている。果たして
これが落城寸前長政が心頭を滅却して冷静に
書状を認めた自筆のものかそれても浅井氏の
祐筆的存在の片桐子息が豊臣秀吉の妻妾とな
った茶々こと淀の方に提出披見させて浅井氏
「淀殿」に再就職仕官
を得る為の片桐氏自筆による書状だったか?
はたして若き浅井長政と言う自刃落城が迫る
切迫した精神状態のなかで小さな文字を用い
て安定した文字を書けたかはなはだ疑問でも
ある。件の籠城の労をねぎらう長政の言葉を
片桐氏が落城後に心落ち着けて記したのか?
いろいろと詮索して本論から脱線しまう私
ではあるのだが?中世の文書は没落した今井
氏なども『島記録』に残して江戸時代になっ
ても武士階級として再仕官する為に江戸滞在
して江戸浅井氏江姫や浅井系の縁者のツテを
たよりに再就職の段取りをしていた事が解る。
浅井系の縁者では江戸幕府に再就職した田屋
氏は三好氏を名乗り武家として存続している
思いもよらない事に浅井氏から美濃の斉藤氏
に一度縁あるも近江に帰った女性が近江の方
を名乗り江戸幕府大奥の高級女官となってい
る事なども意外性をしめしていると言える。

さて再度澤山城図と文禄慶長の役における
と肥前名護屋に停泊する、豊臣系の軍船と
澤山城図を比較したい。


先ず軍船には2基の大小の矢倉が存在する事。
澤山城図も基本的2基の大小櫓を描いている。
肥前名護屋図も後部矢倉には欄干つまりは
手すりを回している事だ。澤山城図も小櫓
には欄干を巡らしている。また脱線するが
羽柴秀吉築城する長浜城の地名には天守の
他に欄干に近い文字覧観の文字が見える事
これは秀吉の長浜城にも明智光秀の坂本城
と同じく天守と小天守が存在した痕跡地名
か?
さて艦船と澤山を比較すると双方に大櫓の
前方に附櫓を付属されている共通性がある。
これは織豊大名として一次佐和山城の城主
であった堀尾義晴の松江城天守も全面には
附け櫓を付属させている共通根がみえる。
文禄慶長の役に使われた秀吉方の軍船の
隅柱も澤山城図も隅柱は明確に露出して
いる共通根も観察できる。
軍船に張り巡らされた陣幕には右から
菊花紋、五三の桐紋、菊花紋が交互に
装飾されており皇室の政治を代行する
豊臣政権の様子を如実に語っている。
かく言う佐和山城の山上においても
五三の桐紋瓦破片が採取されている。
また豊臣秀吉存命中の秀吉の居城を
描いた各種屏風類にも天守には菊花
紋や桐紋が描かれるケースが多い。
また秀吉関係の城からは菊花紋や桐
紋瓦が出土する類例が多い。安土城
からも菊花紋瓦が出土している。
また鳥居本側の山麓武家屋敷跡でも
五三の桐紋金具が発見されて話題に
なった。また元滋賀民俗学会理事長
の粕淵先生も彦根城内の地面から桐
紋瓦を表面採取され然るべき教育委
会様に提出報告されている。彦根城
は佐和山城から移築され築かれた事
が初期段階でしのばれる。以上の如
桐紋と佐和山は縁が深いと言えよう。
桐紋は足利将軍家が皇室から拝領し
た紋所、織田信長も足利義昭から
下賜され桐紋を使った武将でもある。
◆安土御殿と佐和山城
本能寺の変後に織田軍諸将は清須会議
の評定を開催し織田一族を安土御殿に
住まわせた事はよく知られている。信
長の孫に相当する。三法師丸は秀吉の
意見で織田家嫡宗の血統として佐和山
も織田家の領分としこの佐和山管理を
織田家として預かる役目が堀秀政だ。
佐和山城のオナー持ち主は織田家で
ある事は先の投稿で『信長公記』に
丹羽長秀を城主ではなく城代にして
いる事でも明確に理解できる。さて
石田治部少輔の居城となった佐和山
城であるが石田は皇室の正式官途名
治部少輔と言う役職である事を忘れ
てはならないだろう。佐和山から
五三の桐紋が出土する事は意味深い。



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