織田水上軍団 佐和山城代 丹羽五郎左衛門長秀憤慨する。
一般者
信長の安土城、光秀の坂本城、秀吉の長浜城
信澄の大溝城、この4城をびわこ織田軍団の
4城ネットワークと
解説された頭脳の明敏さに驚きます。
水の城4城織田四天王の古城交通理論。
丹羽長秀
ちょつと待ってくれますか?江州佐和山城は
私が城代。主君織田信長から私が任命された。
その証拠がこれです。
『信長公記』
元亀二辛未(1571年)の記録には
「佐和山城渡し進上の事
正月朔日、濃州岐阜にて各御出仕
これあり。二月廿四日、磯野丹波
降参申し、佐和山の城渡し、進上
して、高島へ罷り退く。則ち、
丹羽五郎左衛門を城代として入れ
おかれ候ひき。」
元亀二辛未(1571年)の記録には
「佐和山城渡し進上の事
正月朔日、濃州岐阜にて各御出仕
これあり。二月廿四日、磯野丹波
降参申し、佐和山の城渡し、進上
して、高島へ罷り退く。則ち、
丹羽五郎左衛門を城代として入れ
おかれ候ひき。」
丹羽長秀
私は元々柴田、丹羽、羽柴、佐久間
の織田信長の四天王なんですよね。
それに我々織田軍団は河川の流れる
場所に城を作る人達です。古渡城、
清須城、小牧山城、岐阜城、そして
信長が約8カ月逗留した我佐和山城
これは全て水陸の交通の要衝です。
私が赴任していた頃の佐和山城の
南西には芹川がとうとうと流れて
松原内湖は広々とした湖が広がり
多数の舟も停泊し彼らは船舶の安全
祈願を願う為に大洞弁財天を崇敬
しました。簡単にいうなら水の神様。
水陸の要の城が佐和山城なんです。
佐和山城は水陸兼備の要衝の城です。
だから織田琵琶湖水上交通とは
①坂本城、
②大溝城
③長浜城
④佐和山城
⑤安土城
この五城だと考えて欲しいんです。
これこそ、五行思想だとか
信長を別にした四天王の4城
なんて事は言いませんが。。
一般者
でも佐和山城って松原は近いですが
水辺の城ってイメージ無いのです。
丹羽長秀
長浜の藤吉郎と佐和山の五郎左は志賀の
陣でも共に信長の宇佐山に救援に走る我ら
2人は長浜秀吉と佐和山長秀のコンビです。
それに信長が松原で琵琶湖を行く軍船
を作ったときも芹川と松原内湖のライン
で大船の造船を実施してます。織田軍
の水上交通のそれを言うならば佐和山
城を筆頭にあげるべきが順当でしょう。
その証拠がこれですよ。
丹羽長秀
往古佐和山内湖/松原内湖へと芹川が流れ
込んでこの水運を利用して織田信長は大舟を
建造している事も『信長公記』より判明する。
『信長公記』天正元年1573年の記述より
「五月廿二日、佐和山へ御座を移され、多賀・
山田・山中の材木をとらせ、佐和山の麓、
松原へ、勢利川通り引下し、国中の鍛冶・
番匠・杣を召し寄せ、御大工岡部又右衛
門棟梁にて、舟の長さ三十間、横七間、
櫓を百挺立たせ、艫舳に矢蔵を上げ、
丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かされ、
在佐和山なされ、油断なく、夜を
日に継ぎて仕り侯間、程なく、七月三日?、
出来吃んぬ。事も生便敷大船、上下耳
目を驚かすこと、案の如し。」
建造している事も『信長公記』より判明する。
『信長公記』天正元年1573年の記述より
「五月廿二日、佐和山へ御座を移され、多賀・
山田・山中の材木をとらせ、佐和山の麓、
松原へ、勢利川通り引下し、国中の鍛冶・
番匠・杣を召し寄せ、御大工岡部又右衛
門棟梁にて、舟の長さ三十間、横七間、
櫓を百挺立たせ、艫舳に矢蔵を上げ、
丈夫に致すべきの旨、仰せ聞かされ、
在佐和山なされ、油断なく、夜を
日に継ぎて仕り侯間、程なく、七月三日?、
出来吃んぬ。事も生便敷大船、上下耳
目を驚かすこと、案の如し。」
丹羽長秀
天正10年には信長休憩用の茶室も
作っています。
「佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門
一献進上」と『信長公記』にいあります。
私は天正10年には坂田郡番場まで
出張して織田信忠、徳川家康、
穴山梅雪の出迎え接待をして
おります。
その証拠がこれですよ。
『信長公記』天正10年
五月十四日、江州の内、ばんぱまで、
家康公・穴山梅雪御出でなり。
惟住五郎左衛門、ばんばに仮殿を
立ておき、雑掌を構へ、一宿振
舞申さるゝ。同日に、三
位中将信忠卿、御上洛なされ、
位中将信忠卿、御上洛なされ、
ばんば御立ち寄り、暫時御休息
のところ、惟住五郎左衛門、
一献進上侯なり。其の日、安土
まで御通侯ひキ。五月十五日、
家康公、ばんばを御立ちなされ、
安土に至りて御参着」とある。
一般様
惟住五郎左衛門ってだれですか?
丹羽長秀
惟住五郎左衛門は丹羽五郎左衛門
私の事です。
一般様
五郎左衛門さん解りました興奮し
ないで下さい。
丹羽長秀
あのう~安土安土水上交通の城と
言うならば、安土城築城の総普請
奉行を担当したのが私五郎左です。
一般様
五郎左衛門さんありがとうございます。
丹羽長秀
いいやまだ言いたいの!天正10年藤吉郎
と私は明智光秀に山崎破り勝利しました。
藤吉郎は私に坂本城を与えてくれました。
天正11年柴田勝家と戦う為に私は塩津や
海津に布陣してもしも賎ヶ岳に柴田侵攻
するなら私は塩津海津に琵琶湖から船に
乗って賎ヶ岳に登城しました。正直言っ
て賎ヶ岳佐久間玄蕃に取られる寸前で
した。私は少数ではあるが賎ヶ岳へと
乗り込んで五郎左着到と大声で叫んで
味方の志気を鼓舞した。すると藤吉郎
が美濃大垣から到着して我らは柴田軍
に大勝しました。これは私が佐和山城
時代か琵琶湖水軍を養成して水城坂本
城の城主になったればこそ成し得た事。
藤吉郎は私の琵琶湖水軍佐和山城代と
言う私のキヤリア持ち味を知れ尽して
いた。
一般者
解りました。貴方は四国渡海の準備も
信長から天正10年に命じられていた。
私は佐和山城が水辺の城で貴方が舟
を使う武将であると言う根本認識を
完全に忘れていました。佐和山と
松原を結ぶ百閒橋の存在も写真に
残っており佐和山が彦根松原が
水上交通の要だった事を忘れて
入ました。後に石田治部少輔が何故
佐和山城に強く固執したかも解ります。
丹羽長秀
私は近江の人々にあまりにも知られて
いません。私が鳥居本百々屋敷丸山砦
に陣どった事も虎御前山城にも昔は私
の陣場が存在した事も。