安土城天主のルーツ譜の民俗学的考察
◆文献『御湯殿上日記』
※①文明十五年六月二十七日条には
「むろまち殿ひむかし山へ御わたまし
のよしきこゆる。めてたし」。と記され
ていて渡御の意味や東山の事を「ひむかし
山」の音韻を用いている事に興味をそそる。
◆東山殿※②と安土城天主の共通点
東山銀閣に地下石蔵が存在した文献が
残されている。※②長享2年1488年の
公家『山科家禮記』※③に
「昨日東山殿石蔵用木事奉書之事
あなうのもの出来也」の記述の石蔵
とあなうもの記述にあである。石蔵
は地下室、あなうのもの は穴太の意
と思われる。
◆東山殿が ひむかしの山 と表現され
ている事と後世の二次史料の『明智
軍記』には明智光秀が織田信長に安土
城天主を指南する様子が伝説として
記されている。勿論天正4年創建の安土
城より既に元亀年間末期に天主を穴太
地域も含む坂本方面に光秀が坂本城を既に
築城していた事は文献『吉田兼巳日記』
でもすでに知られている。しかし現在の
ところ良質の文献資料には安土城天主を
穴太衆が担当した良質の資料は存在しな
い。本論が民俗学的試論であるので文献
史学の見地からは記述しない。ただし天正
4年の記録、文献『信長公記』には石蔵の
の文字がある事には東山殿と安土城天主
は共通点を持っている。地下石蔵を地下
世界の石組の仕事をする人が穴太と中世
呼ばれていた可能性はあるが穴倉あなぐら
の仕事と言うニュアンスで表現されている
のかもしれない。この東山殿の地下蔵の溝
の石組みとは深さ1、2m。巾80㎝とされて
いる。※④
◆幻想論に過ぎないが
明智光秀は九州の名族惟任の官途名である
日向守「ひゆうがのかみ」を正式に名乗っ
ている。歴史民俗学的には日向は「ひむがし
」と発音されている。前述した文献『御湯殿
上日記』※①文明十五年六月二十七日条には
「むろまち殿ひむかし山へ御わたまし」とあり
1483年ころは「ひがしやま」と発音せずに
「ひむかし山」と発音していた事が明白だ。
◆「ひむかし」とは元来なにか?
古来、太陽の日昇方向を「ひむかし」発音し
昇天する朝日や御来光を遥拝していた古代の
世界観は容易に推察される。
◆安土城天主の方位の今後の研究課題
果たして安土城天主には夏至や冬至から
差し込む太陽の光の方向が拝む為の地下
室や地下蔵上の一階には窓や門扉が方位
を勘案して設計縄張されれたのかは今後
の研究考察の課題としておきたい。
安土城天主はのめくるめく工学的建築の
謎が潜在していると思われる。
◆織田信長の名物蒐集思考の監察
蘭奢待(らんじゃたい、蘭麝待とも表記)は、
東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一
の名香と謳われる。 織田信長はこの名香を切り
取っている。
◆蘭奢待の切り取り名札には
織田信長「安土城」
足利義政「東山殿」
の両者の切り取り名札がある事に着目したい。
信長は安土城に足利義政になぞらえた殿閣や
楼閣を意識していたのではないだろうか?
◆安土天主中核礎石の無い不思議
金閣も舎利殿、銀閣も舎利殿一種の
仏舎利を鎮壇具として用いる仏塔の
系譜は東洋には長く広く存在した。
安土城天主中核は仏舎利収容場所
や塔芯の基底部に該当するものか?
※①1483年
※②東山殿= 足利義政が、東山に造営した山荘。
今の銀閣寺。
※③『山科家禮記』
※④荒木集成館友の会「きりん」第23号40項