驚異の宇陀松山城のビイスタ論
◆一般様
いやいや長谷川先生の『城郭ビイスタ論』全国の
学芸員、研究家、有識層、を中心に大変な話題に
なっています。この城郭理論は戦前戦後を通して
も日本最高峰の城郭研究理論と最近話題沸騰です!
◆長谷川
大袈裟過分の御称賛は控え下さい。私は無職の
日陰者にして人生の裏街道を行く孤独な研究家
です。当投稿も学術に関するストイックなのも
で営利利潤を目的にした内容で全くありません。
◆反論者
長谷川の『城郭ビイスタ論』など絶対認めんぞ!
そんな城郭ビイスタ動画なんぞ絶対見てならん!
◆質問者
本能寺の変後、秀吉政権樹立後、近江佐和山主
だった、堀久秀政の実弟の名前は何と言う人?
◆多賀貞種をウッイッキペデイアより引用
となり、兄・秀政の家臣となり、8,000石を領した。
兄の留守中に長く佐和山城の城代を務めた。
再び改易された。甥の堀秀治を頼ったものの、
11月に死去。
◆質問者
天正11年1583年賤ケ岳合戦において貞種の実兄
堀秀政の陣である東野山陣城にはビイスタ工法
が存在しますか?
◆長谷川
存在します。貞種の兄、堀久太郎秀政の東野山
城にも見事な扇型を呈する縄張が読取れますよ。
▼
◆質問者
大和神楽岡は何処城ですかビイスタ工法あります?
◆長谷川
大和宇陀松山城です。多賀氏の時代云々は別とし
て古い歴史ある宇陀松山城のビイスタ工法を検討
を試みたいと思います。事前に、お断りしますが
今回の私のビイスタ工法の検討は楼閣建築に関し
言及したものではなくあくまで地取りや土木工事
に関する縄張構造をビイスタ工法に照らし合わせ
試みたもので誤解のない様お願いを申し上げます。
と同時に奈良県宇陀市様益々観光隆盛されます事
も含めて心より祈念の意味も含めて投稿致します。
◆長谷川
東から均整取れたクサビ型ビイスタ工法に圧倒
されます。天守郭の東方面には、二の丸、大門、
大御殿などの地名が並び宇陀松山城の重要地点
であった事が偲ばれ、それにしても城郭中心を
貫く中心軸線の配置の見事な整合性や配置に驚
きます。周囲の横堀堀切の配置等も絶妙な配置。
◆長谷川
次に西の雀門方面からのビイスタ工法も見事
整合性ある縄張です。御加番、雀門、御定番
の配置更に奥にある本丸そして天守郭の見栄
をも意識した工夫つまり『城郭ビイスタ工法』
は見事な縄張の栄えや城郭として見栄の考慮。
▼典型的なクサビ型ビイスタ工法の一例と言えます。
◆長谷川
高度な幾何学測量縄張を用いた相対型ビイスタ
工法も読み取れます。また天守郭の縄張も凡そ
読取れます。
◆一般様
チョツト待って下さい!こんな素晴らしい城郭
理論を私は半世紀以上目にも耳にもした事ない!
◆長谷川
この相対型縄張ビイスタは何も特異な類例では
ありません。織豊時代の「豊」の時代を主役た
る羽柴秀吉は北近江小谷城城主なども歴任して
数多くの織豊系武将とも関係する歴史の著名人
です。北近江小谷城出丸にも相対型のビイスタ
を縄張を持っ優れた城郭遺跡は現実に存在する。
▼北近江小谷城出丸縄張図 ブログ著者本人
▼北近江小谷城出丸縄張図 相対型ビイスタ工法腺
◆一般様
チョト待って下さいよ!こなんな進歩した城郭理論
が日本国に実際に存在するんですが?全く衝撃です!
▼宇陀松山城 西からの扇状ビイスタ工法
◆質問者
連続竪堀群の配置や、城の中芯地点、つまり
中央ビイスタは何処にあるのか御教示下さい。
◆長谷川
宇陀松山城全域を統括する中央ビイスタ点は天守郭
に存在すると思われます。この地点から全山を統括。
▲上記中央ビイスタの中心点「A」とは下図の
様な要領で位置決めされていると思われます。
◆質問者
宇陀松山城本丸に礎石配列などの作事とは別に
城郭縄張に関わる中央ビイスタ存在しましたか?
◆長谷川
礎石配列とは別の縄張に関する中央放射型の城郭
縄張は存在したと思います。礎石配列と城郭縄張
作事奉行と普請奉行の全く分野の異なる担当者が
設計している事を安土城天主台礎石や羽柴秀保の
陣城から皆様再認識を是非ともお願い申しげます。
▼近江 織田信長
安土城天主台 礎石配置と礎石配置「中央放射型」
▼肥前名護屋 文禄慶長役 羽柴秀保 陣城
◆質問者
連続竪堀の配列の基準のビイスタを教示ください。
◆長谷川
連続竪堀群の配置は天守郭の北に青線の放射状
のビイスタ工法に従い周到に配置されています。
◆対談者
ううん、ビイスタ論とは日本城郭研究史において
見見落とされていた最重要の縄張術の根幹原則!
◆質問者
他の場所にもビイスタ工法は存在するのでしょうか?
◆長谷川
思いもよらぬ場所にも城郭ビイスタ工法は存在します。
どこから宇陀松山城「秋山城」を見ても美しく見える
多角的多視野的な見栄えのする工夫がされていた事か
と私は思います。▼南から見た宇陀松山城のビイスタ工法
◆長谷川
諸所の郭でももそれぞれの工夫したビイスタ工法を
施工したと私は考えております。
◆質問者
ウイッキペデイアより
宇陀松山城の履歴を再度ご教示ください。
(2006年)に国の史跡に指定されている。別名は秋山城
(あきやまじょう)や神楽岡城(かぐらおかじょう)
宇陀松山城は宇陀郡を領分する有力国人宇陀三将(秋山氏
、芳野氏、沢氏)の一人、秋山氏が居城として古城山に山城
を築いたのに始まる。築城時期についてはわかっていないが
、南北朝時代には構えられていたと思われる。また、城名は
秋山氏が居城としていた頃は松山城とは呼ばれず、秋山城と
入部に伴い秋山氏は宇陀から退去した。以後、伊藤義之、
われ近世城郭へと移行した。この間の大規模な改修により
要として豊臣政権に認識されていたことが窺える。
した。 高晴は、豊臣政権下の大名の改修に加えてさらに
大規模な改修を行った。近年の発掘調査により、本丸御殿
をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、瓦・陶磁器類
などが出土し、当時の大改修の様子が明らかになってき
ている。これらの大名の大改修を機に、城名が松山城と
され城も小堀遠州らによって破却され廃城となった。破却
の際の小堀遠州の書状が現存しており、城割(城を壊すこと)
の内容が把握できる貴重な事例として注目される。