9/30(木)
おはようございます。
今日で9月も終わりですね。昨日の朝は、今年一番の冷え込みで湯来の気温は12℃。いよいよ私の嫌いな冬に一歩一歩確実に近づいてきました。
ブログの書き込みをしているうちにいつの間にか外は雨になっています。一雨ごとに”秋色”が濃くなってくるんでしょうね。
車庫に置いている車は降雪時には乗れないので今のうちにどこかへドライブしてみたいと思っていますが、当てのない場所に出かけても楽しくないので皆さんの秋のお出かけスポットがありましたらお教えください。
今朝の湯来に伝わる民話は「善六物語」です。
貧しく、厳しい時代の一コマが目に浮かびます。
江戸時代の中頃、徳川幕府は財政を立て直すため、徳政令(とくせいれい)を出して、農民から年貢を前よりも一層多く取り立てる「決まり」を作りました。
享保年間に入ると広島藩全域で百姓一揆が相次いで起こりました。また、徳政令の厳しい「決まり」に便乗して、悪徳庄屋や役人が百姓を苦しめているところがありました。砂谷村にも、強欲な庄屋がいて百姓の年貢を集めるのに、
「お上の決まりで、今度からこの升で年貢を納めるようになった。さよう心得よ」
との触れが出ました。今までより少し升が大きくなっていました。
「庄屋さんは無理をいいんさるよのう」
庄屋は下役人と組んでいるので訴え出たら後が怖いと、みんなは泣き寝入りをしていました。
善六という正義感の強い若者が言いました。
「こんな決まりがあってたまるか。百姓の苦しみはもう見ておれん」
我慢できなくなった善六は佐伯の代官所に駆け込み
「わしたちの村は、無理な決まりを押し付けられ難儀をしております。どうか、お調べください。」
と訴え出ましたが、庄屋や下役人の内通があり
「色々と調べているがさようなことは無い。早々に立ち去れ」
と取り上げてもらえませんでした。相次ぐ不作と重い年貢で百姓の難儀は目に余るものがありました。
「斯くなるうえは自分の一命は賭しても、百姓の難儀をお上に直訴する以外にない」
直訴は死罪に決まっているのにもかかわらず、善六は決心しました。
「広島藩、浅野の殿様は名君である」と聞いていたので、広島の城下に出た善六は、直訴する機会をうかがっていましたが、なかなかその機会がなく困っていました。
ちょうどその頃、鹿児島、島津の殿様が参勤交代で江戸に行かれるため、広島藩をお通りになることを知った善六は、
「島津のお殿様から、浅野の殿様にこの書状を渡してもらおう」
まず、周防の国、岩国まで行き、
「お願い申す。お願い申す」
と走り出たが、先頭を行く武士に
「無礼者、何をする者ぞ」
と追い返されました。翌日は玖波村に先回りして直訴しようとしましたが、また失敗に終わりました。二日後に広島城下の本陣宿を出た行列が西条に向かって進んでいました。善六は海田市を越えた頃、木陰から一目散に島津の殿様の籠に走りより、
「お願いでございます。お願いでございます。何とぞこの書状を浅野の殿様にお届けください」
「相分かった」
善六の書状はおとりあげになりました。その結果、後に、悪下役人と悪徳庄屋は重い罰を科られました。同時に、島津の殿様への直訴に成功した善六に対して、
「天下のご法度を犯した上、島津公の行列を騒がせた罪により、直ちに斬罪に処する」
として、広島藩も役人に引き渡されました。広島牢で厳しい取締りを受け、「打ち首」の刑が決まりました。
もとより覚悟の上とはいうものの、
「せめて屍を故郷の土に埋めてもらいたい」
と申し出ました。許されて葛原に送られ、生家の近くで打ち首の刑に処せられ、刑場の露と果ててしまいました。
次回の湯来に伝わる民話は「宵蜘蛛」です。お楽しみに。
今日は傘が必需品です。置き忘れには気をつけましょう。
おはようございます。
今日で9月も終わりですね。昨日の朝は、今年一番の冷え込みで湯来の気温は12℃。いよいよ私の嫌いな冬に一歩一歩確実に近づいてきました。
ブログの書き込みをしているうちにいつの間にか外は雨になっています。一雨ごとに”秋色”が濃くなってくるんでしょうね。
車庫に置いている車は降雪時には乗れないので今のうちにどこかへドライブしてみたいと思っていますが、当てのない場所に出かけても楽しくないので皆さんの秋のお出かけスポットがありましたらお教えください。
今朝の湯来に伝わる民話は「善六物語」です。
貧しく、厳しい時代の一コマが目に浮かびます。
江戸時代の中頃、徳川幕府は財政を立て直すため、徳政令(とくせいれい)を出して、農民から年貢を前よりも一層多く取り立てる「決まり」を作りました。
享保年間に入ると広島藩全域で百姓一揆が相次いで起こりました。また、徳政令の厳しい「決まり」に便乗して、悪徳庄屋や役人が百姓を苦しめているところがありました。砂谷村にも、強欲な庄屋がいて百姓の年貢を集めるのに、
「お上の決まりで、今度からこの升で年貢を納めるようになった。さよう心得よ」
との触れが出ました。今までより少し升が大きくなっていました。
「庄屋さんは無理をいいんさるよのう」
庄屋は下役人と組んでいるので訴え出たら後が怖いと、みんなは泣き寝入りをしていました。
善六という正義感の強い若者が言いました。
「こんな決まりがあってたまるか。百姓の苦しみはもう見ておれん」
我慢できなくなった善六は佐伯の代官所に駆け込み
「わしたちの村は、無理な決まりを押し付けられ難儀をしております。どうか、お調べください。」
と訴え出ましたが、庄屋や下役人の内通があり
「色々と調べているがさようなことは無い。早々に立ち去れ」
と取り上げてもらえませんでした。相次ぐ不作と重い年貢で百姓の難儀は目に余るものがありました。
「斯くなるうえは自分の一命は賭しても、百姓の難儀をお上に直訴する以外にない」
直訴は死罪に決まっているのにもかかわらず、善六は決心しました。
「広島藩、浅野の殿様は名君である」と聞いていたので、広島の城下に出た善六は、直訴する機会をうかがっていましたが、なかなかその機会がなく困っていました。
ちょうどその頃、鹿児島、島津の殿様が参勤交代で江戸に行かれるため、広島藩をお通りになることを知った善六は、
「島津のお殿様から、浅野の殿様にこの書状を渡してもらおう」
まず、周防の国、岩国まで行き、
「お願い申す。お願い申す」
と走り出たが、先頭を行く武士に
「無礼者、何をする者ぞ」
と追い返されました。翌日は玖波村に先回りして直訴しようとしましたが、また失敗に終わりました。二日後に広島城下の本陣宿を出た行列が西条に向かって進んでいました。善六は海田市を越えた頃、木陰から一目散に島津の殿様の籠に走りより、
「お願いでございます。お願いでございます。何とぞこの書状を浅野の殿様にお届けください」
「相分かった」
善六の書状はおとりあげになりました。その結果、後に、悪下役人と悪徳庄屋は重い罰を科られました。同時に、島津の殿様への直訴に成功した善六に対して、
「天下のご法度を犯した上、島津公の行列を騒がせた罪により、直ちに斬罪に処する」
として、広島藩も役人に引き渡されました。広島牢で厳しい取締りを受け、「打ち首」の刑が決まりました。
もとより覚悟の上とはいうものの、
「せめて屍を故郷の土に埋めてもらいたい」
と申し出ました。許されて葛原に送られ、生家の近くで打ち首の刑に処せられ、刑場の露と果ててしまいました。
次回の湯来に伝わる民話は「宵蜘蛛」です。お楽しみに。
今日は傘が必需品です。置き忘れには気をつけましょう。