子供がやりたいと言って始めた事。
親のほうから「あれをやらせたほうがいい」の思考でやらされる習い事。
自分の習い事について思うのは
小学生→その競技を楽しくやる
中学生→その競技の勝ち負けを楽しむ
高校生→その競技の勝ちにこだわる
このような考えを持っています。
そこでよく耳にする親からの言葉として
「あなたがヤルって言ったんだから最後までやりなさい」
この言葉を発する親の気持ちは
〃ヤメ癖がつくんじゃないか?〃
〃根性がつかない〃
〃中途半端な人間になるんじゃないか?〃
などのマイナスなイメージを持つ人はいるでしょう。
一方で、子供側からしたら
〃自分でヤルとは言ったけど、イメージと違った〃
〃習い事にいる人や先生と合わない〃
〃単純に面白くない〃
子供は自分の気持ちをうまく伝えるだけのワードセンスを持ち合わせていなく、やめたいと言う気持ちがあると言うだけ。
それに対して「最後までやりなさい」は残酷
ちなみに最後とは?と、こっちが聞きたいぐらい。
子供がやりたいと言った→やらせる。
これについてわりと親ってハードル低いですよね。
やりたいと言った事をやらせてあげれないのはかわいそうだからとかの理由で。
まぁ、けどそこに一言追加するんだろうゲドも。
子供がやってみたい!と思う気持ちと
やめたい!と思う気持ちと勇気は同等と思っています。
きっと、やるなら最後まで・やるならある程度まで・やるならここまでできるまで、のようなルールを追加させる家庭の子の将来は
「ヤルって自分で言ったらなかなかやめれない(新しい事にチャレンジできない)から、もうやりたい事があってもやるって言わないでおこう」と、いった挑戦できなくなる子になると思います。
やるのも挑戦。やめるのは親に対してやめさせてもらうある意味での挑戦。
自分は妻によくこう言います。
自分「今日○○するわ。(家事や買い物系)」
数時間後、
自分「やっぱやめるわ。代わりにやって」
妻「はぁ?何考えてんの?」
自分「俺はやると強い信念を持って言った。だがしかし、それ以上強い気持ちでやめる判断をした。むしろ英断!」
大人になると都合のいい言葉ってありますよね〜
親のほうから「あれをやらせたほうがいい」の思考でやらされる習い事。
自分の習い事について思うのは
小学生→その競技を楽しくやる
中学生→その競技の勝ち負けを楽しむ
高校生→その競技の勝ちにこだわる
このような考えを持っています。
そこでよく耳にする親からの言葉として
「あなたがヤルって言ったんだから最後までやりなさい」
この言葉を発する親の気持ちは
〃ヤメ癖がつくんじゃないか?〃
〃根性がつかない〃
〃中途半端な人間になるんじゃないか?〃
などのマイナスなイメージを持つ人はいるでしょう。
一方で、子供側からしたら
〃自分でヤルとは言ったけど、イメージと違った〃
〃習い事にいる人や先生と合わない〃
〃単純に面白くない〃
子供は自分の気持ちをうまく伝えるだけのワードセンスを持ち合わせていなく、やめたいと言う気持ちがあると言うだけ。
それに対して「最後までやりなさい」は残酷
ちなみに最後とは?と、こっちが聞きたいぐらい。
子供がやりたいと言った→やらせる。
これについてわりと親ってハードル低いですよね。
やりたいと言った事をやらせてあげれないのはかわいそうだからとかの理由で。
まぁ、けどそこに一言追加するんだろうゲドも。
子供がやってみたい!と思う気持ちと
やめたい!と思う気持ちと勇気は同等と思っています。
きっと、やるなら最後まで・やるならある程度まで・やるならここまでできるまで、のようなルールを追加させる家庭の子の将来は
「ヤルって自分で言ったらなかなかやめれない(新しい事にチャレンジできない)から、もうやりたい事があってもやるって言わないでおこう」と、いった挑戦できなくなる子になると思います。
やるのも挑戦。やめるのは親に対してやめさせてもらうある意味での挑戦。
自分は妻によくこう言います。
自分「今日○○するわ。(家事や買い物系)」
数時間後、
自分「やっぱやめるわ。代わりにやって」
妻「はぁ?何考えてんの?」
自分「俺はやると強い信念を持って言った。だがしかし、それ以上強い気持ちでやめる判断をした。むしろ英断!」
大人になると都合のいい言葉ってありますよね〜