メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ロボコン

2006-08-12 22:13:54 | 映画
「ロボコン」(2003, 118分)
監督・脚本:古厩智之(ふるまや ともゆき)
長澤まさみ、小栗旬、伊藤淳史、塚本高史、鈴木一真、須藤理彩、うじきつよし、水野真紀、吉田日出子、荒川良々
NHK-BS録画で再度見たもの。
  
青春映画の傑作である。そして長澤まさみは初主演で本当にいい脚本に恵まれ、その後の日本映画を背負ってたつ素材であることを示した。
大げさでなく、この数年で、クラブ活動を背景とした青春映画にいいものが多いが、その中でも「ウォーターボーイズ」(2001)、「スウィングガールズ」(2004)、と並んでベスト3だろう。
 
全国の高専が参加するロボットコンテストを盛り上げる意味の映画でもあるのだろうか、そのコンテストに出るある高専の生徒長澤が単位をとれず、その代償としてロボット部のそれも2番目のBチームで活動するはめになる。
ここには天才と考えられているが協調性がまるでない小栗、主体性が無い部長の伊藤、工作技術はすごいが小栗の熱中に引いてしまっている塚本、というどこの組織にもありそうな組み合わせ、それでも無理でも全国大会を目指す。
 
そしてチームとしてまとまらないが故の合宿、地区予選、全国大会と、これら4人がどうぶつかり、小さくてもどこを理解し、ロボットの製作・改良と戦術・操縦につなげていくか、本当に丁寧に描いていく。この丁寧な細部が本当にいい、そしてそれを演じる若い彼ら、結果は見事である。
 
前記二つの傑作は最後みんなが一つになって一緒にパフォーマンスするが、これは結果を出すのはロボットであり、役割はばらばらであり、それだからそのやり取りと理解に達するということが、何か本当にコミュニケーションという感じがするのである。
いい設定だ。
 
この映画のある評に、もう一つの主役は敗れたものも含め登場するロボット達であるとあったが、本当にそのとおりで、実際の大会に出たいくつものチームから賢く楽しいロボットが登場している。彼らのレベルの高さに驚く。
 
長澤まさみは、じっくり準備し、存在感を作ってからの演技というより、すっと滑り込んでその場から白い紙に軌跡を描くように動いていく。自分が動いた、話した、それをそのまま今の現実として受け取り、場面で生きていく。それが先天的が出来るのだろうか。
 
印象的な場面はいくつもある。最初の保健室でのふてくされた長澤の登場、合宿に行く途中のトラックの荷台で歌う「夢先案内人」(山口百恵)、部室の窓の外からぴょこんと頭を下げ突然笑顔になってありがとうというところ。
大会の途中に4人で話しながらラーメンを食べるかなり長いショット。
やはり大会途中に長澤がロボットの操縦練習を屋外一人でやっているところの傍、階段で他校の応援バンドが「星の流れに」を練習しているその横を小栗が通り他の二人も離れており長澤だけがすり鉢の底みたいなところで動いている、それを俯瞰で捕らえるカメラ。このシーンは大会の終盤できいてくる。
高専ロボットの風景を含め、この時代の証人ともなりうる映画だろう。
 
それにしても、前記二作にも言えることだが、どうしてこういう作品を海外へ強力に売り込まないのだろうか。
 
今年も12月に高専ロボットの大会があるから、12月~1月にNHKのBSあたりで放送するだろう。

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海流のなかの島々(ヘミングウェイ)

2006-08-12 18:49:42 | フィクション
アーネスト・ヘミングウェイ「海流のなかの島々(Islands In The Stream)」 沼澤洽治 (新潮文庫 上下)
 
ヘミングウェイ(1899-1961)生前は未発表だった小説。おそらく第二次世界大戦中から一部構想執筆が始められ、1940年代後半から1950年過ぎあたりまでの間に書かれたと推定されている。舞台はバハマ、キューバ周辺、時代はドイツU ボートがこの周辺に現れる1940年前後である。
 
主人公は作者自身と思われる画家で、夏休みに訪ねてきた三人の息子(長男と後の二人は母親がちがう)との再開と、トローリングで遭遇する巨大なカジキと次男の死闘を描く第一話、キューバの酒場で画家の過去と現在が、延々と続く飲酒の中でそして出入りする人々とのやり取りの中で描かれる第二話、また彼はこの海域で対独掃海をやっている非正規軍みたいなグループの長なのだが、その厳しい戦いの行程を描く第三話、という構成になっている。
 
小説としてのダイナミックな動きは必ずしも多くないから、何か別の大きな小説を書くための準備、スケッチか、などど読みながら思ったものである。
後で読んだ解説によると、準備ではないが、大きな構想の作品の一部として書かれたという説が有力だそうだ。
 
面白くて読み進むというわけではないが、ヘミングウェイの他作品と同様、観念的なところはなく、描写にあいまいさはない。それに会話の比率が高いために、なおさら臨場感は高い。
 
それでも全体を通して表出されてくるのは、彼の周りをとりまく死であり、またこの画家にとっての死というもの、その受け取り方、というものだ。
死に対しじたばたはしないが、命には必死にすがりつく、男の仕事に比べれば命など安いものだが、厄介なのは命が無くては困る、と。 そう、ある程度ヘミングウェイを読んでいると、そうだなと思う。
 
息子との会話、カジキとの格闘の描写、猫との会話、酒場での下品なことも含む会話、海上での部隊にいる個性的な連中との会話、主人公の強さと抑制と、それでも入り込んでくる後悔、諦念と、これらをゆっくりと味わった。
 
カジキとの闘うのは次男であるが、これはどうしても「老人と海」(1952)のベースになったと考えてしまう。公開された「老人と海」がより作者の本心に近いと考えれば、作者はこの次男の闘いを書いたときより、何か死の甘美な誘惑に少しではあるが傾いていると受け取れる。
 
長男が小さい頃いっしょに暮らしたパリの話が出てくる。著名な作家、画家が実名で登場し、街路、店の説明も詳しい。作者は世界の都会の中ではパリが好きなようだ。
 
さて皆よく酒を飲む。出てくるのはやはりフローズン・ダイキリ、トム・コリンズなどヘミングウェイの定番が主だが、中にスコッチをペリエで割るのがあり、主人公はこれを推奨している。ハイボールより落ち着いているかも知れない、今度試してみよう。

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