フリードリッヒ・グルダの「the GULDA MOZART tapes Ⅱ」の1枚目を聴き、先にK.310について書いた。
2枚目を聴くのはかなり後になってしまい、ようやくK.457、K.570、K.576の3曲を聴いた。
このあたりになると、曲想は大きな建築物を見るような、あんまり遊びがない、メロディも重厚、男性的といえばそう、となってくる。実は曲の感じが異なる1枚目ケッヘル300番前後の演奏でも、他の作曲家よりは重厚で、華やかさを抑制している感があったのだが、それは当然こちらではもっと当たり前ということになる。
ただ最初おやっと感じてから少したつと、むしろこのモーツアルトのピアノ曲というものは、同じ作曲家の他のジャンルと比べもっぱら音の粒のダイナミスム中心で出来ているということに気がつく。
よくモーツアルトの曲は、多くの部分でスケールで駆け上がってまたターンして降りてくるとか指摘されており、その単純さはその通りだがそれがなんともいえない効果をもたらす、他の人のものではないモーツアルトのものということが感じ取れる。
それをグルダは大変な技術正確なコントロール、自己抑制で出してくる。これは表現というより作曲を音にしたということなのだろうが、それにしてもなんという力学の妙の再現だろうか。
こういってしまうと、味を付けないで正確に弾けばと考えるのだが、ゆっくりした2楽章、例えばK.570のそれなど、音の粒が力学的に空間を動くさまをスローモーションで正確に表出して見せたとでもいえるだろうか。これは大変なピアニスムであり、こんな演奏は始めてである。
そしてモーツアルトだけであろう、こういうダイナミスムだけでピアノソナタを聴かせるというのは。
グルダはベートーヴェンのピアノソナタ全集でも、どちらかというと意識して味をつける、演奏していて出てくる感興を出していく、といった演奏ではなく、少し早めのテンポで進行のダイナミスムから何が出てくるか、その可能性の追求に面白さがある。
ただここで思うのだが、モーツアルトのピアノソナタには、こうやってダイナミスムの面白さ、美しさはあるけれども、それに加えてベートーヴェンのピアノソナタに見られる自然に沸き立つもの(それは時にユーモアだったりする)はない。
それが、なかなか聴く頻度が少ないということになるのだろう。自分で弾く人はちがうかもしれないが。