メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ドン・ジョバンニ ( カラヤン・ウィーン)

2008-12-05 21:55:07 | 音楽一般
モーツアルト:歌劇「ドン・ジョバンニ」
指揮:カラヤン、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、演出:ミヒャエル・ハンペ
サミュエル・レイミー(ドン・ジョバンニ)、アンア・トモワ・シントウ(ドンナ・アンナ)、ユリア・ヴァラディ(ドンナ・エルヴィーラ)、フェルッチョ・フルラネット(レポレルロ)、キャスリーン・バトル(ツェルリーナ)
1987年7月29日、ザルツブルグ祝祭歌劇場
 
この録画ビデオを見るのは久しぶりだが、「ドン・ジョバンニ」の中では、3時間とすこし、一気に見てしまう上演である。
 
それはなによりサミュエル・レイミーのドン・ジョバンニの素晴らしさである。このオペラ、改めてみるとドン・ジョバンニは出ずっぱりに近く、かなり重労働である。しかしレイミーは、終始軽々とかっこよく、自らの生き方、スタイルに最後まで少しもためらいがない。
 
こうでないといけないのだ。劇として成立させるためには、最後ああなるのはもっともだとしても、この結末から逆向きにこのオペラを解釈、演出してはいけない。だれしも、少なくとも男であればドン・ジョバンニのように生きたいとオペラを見ながら思わせなければ、この作品の意味はない。おそらくモーツアルトもそのつもりだっただろう。
最後も普通は騎士長(の亡霊)に奈落の底に引っ張り込まれるところを、手をつかまれたまま天上に連れて行かれるように見せている。天上の食事という歌詞もあるから可能な解釈ではある?
 
そして、もちろんドン・ジョバンニだから、男女関係についていろいろな仕掛けはあるはずで、このハンペの演出はそこにかなり踏み込んでいる。
 
例えば、ドンナ・エルヴィーラは明らかに昔の女であったわけだが、ドンナ・アンナ、ツエルリーナとドン・ジョバンニが実際どうだったのか、ということで、見るものが想像すればかなりわかるように、ハンペの演出はなっている。
 
例えば冒頭、ドンナ・アンナの部屋に顔を隠したドン・ジョバンニが入り、アンナが騒いで彼は逃げていくが、アンナがそれを追いかけていくというのはまさか勇気ある行動ではなくその顔を見たいという衝動、それを聞きつけて出てきた「白い」装束の「父親」をドン・ジョバンニは「剣で一突き」、「赤い血」を流して父親は息絶える。
ドンナ・アンナとドン・ジョバンニが明らかにそういう関係になっていたということである。
 
ツエルリーナとの間にもそれをほのめかす演出がある。
 
さてカラヤンの指揮、死の2年前である。カーテンコールに応じる姿は足もおぼつかないが、このよどみない、時間を忘れさせる音楽の流れには、そんな心配は微塵もない。
モーツアルトのほかのオペラにもまして、この音楽が少ない要素からかくも多彩に、華麗に、滑らかなものに築かれていること、それがかれの指揮でさらに確かに感じられる。
 
モーツアルトのオペラは、オーケストラと指揮者の関係で馬と騎手にたとえられるカラヤンには、必ずしもフィットするとはいいがたい。「魔笛」、「フィガロの結婚」などは特に、文学的・哲学的、あるいは政治的・社会的な、大きな物語つきであるためか、なおさらそうなのだが、この「ドン・ジョバンニ」はそうでない。晩年とはいえ、この録画、そして少し前のベルリン・フィルとのスタジオ・録音が残されたのは幸いだった。出来たならば、「コジ・ファン・トゥッテ」もなのだけれど。

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