ワーグナー:楽劇「神々のたそがれ」
指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:ギー・カシアス
ランス・ライアン(ジークフリート)、イレーネ・テオリン(ブリュンヒルデ)、ゲルト・グロホウスキ(グンター)、ミハイル・ペトレンコ(ハーゲン)、ヨハネス・マルティン・クレンツレ(アルベリヒ)、アンナ・サムイル(グートルーネ/第三のノルン)、ヴァルトラウト・マイア(ワルトラウテ/第二のノルン)、マルガリーテ・ネクラソワ(第一のノルン)
2013年6月 ミラノ・スカラ座 2013年12月 NHK BS Pre
2010年に始まったスカラの「指輪」もいよいよ最後になった。メトロポリタンの少し後に重なって続いたが、これは生誕200年ならばこそのぜいたくだろう。
メトロポリタンはジェームズ・レヴァインが体を悪くし、後半の二つはファビオ・ルイージになったが、スカラはバレンボイムで通すことができた。
演出はこれまでと同じギー・カシアス、これまでは比較的間口の小さな装置で、現代風に、登場人物およびその相互関係を細かく見せていたような記憶があるが、今回は舞台を広く使い、あまり策を弄さない。その代り照明というか、裏側からのプロジェクションなのだろうか、光が効果的だ。
隠れ兜(頭巾)を数人のダンサーの動きで表現したのはこれまでと同じで、面白いやり方である。
ジークフリートは前作と同じだがブリュンヒルデはニナ・シュテンメからイレーネ・テオリンにかわっている。後者の方が歌唱はしっくりとくる感じがある。ただジークフリートを比べてあの体躯が立派すぎるが。
ジークフリートのライアンは歌唱は良いが、前半は表情が硬く、また姿勢、態度がからみてこれはハーゲンにやられるなということが視覚的にも見えてしまっていた。終幕はそうでもなかったけれど。
それにしても、前にも書いたと思うが、この作品はあまり好きでない。前の三作からするとこれはいわば人間界に来てしまった物語で、これまでの神々のいろんな由来と距離ができてしまっているのに、生臭い醜いドラマであるからだ。ジークフリートがこれまでの話を壊してしまうのも媚薬を飲まされたせいで、それは「トリスタンとイゾルデ」の媚薬とは違い、安易な仕掛けにも思える。
そのなかで救われるのは、前半と後半に出てくるヴァルトラウテやラインの乙女たちで、彼女たちが語る神々の話が、直前に三作を見たわけでないこちらに示唆を与えてくれるし、この物語にうまい味付けになっている。
特にヴァルトラウト・マイアはメトロポリタンでもこの役をやっており、長くワーグナーをやっているだけのことはある。素敵な歌手だ。
演出の細かいところでちょっと疑問なのは、殺されたジークフリートからハーゲンが指輪を取ろうとしたときにジークフリートの手が動きそれを阻止するしぐさ、これに故人の意志(遺志?)を感じさせる強さがない。それから指輪を持って火につつまれたラインに入っていったブリュンヒルデを追っていったハーゲンが、ただ入っていったように見え、「指輪に近づくな」という悲鳴が聞こえなかったような気がする。
ここで文句なしなのは、やはりバレンボイムの指揮とスカラのオーケストラで、迫力ある音質と流麗な表現力、いずれも素晴らしい。ワーグナー特に「指輪」では、メトロポリタン(特にレヴァインが指揮したときの)と双璧ではないだろうか。
ところで、終わってのカーテンコール、歌手たちとダンサーが二回くらい出て、後ろの幕が上がると、そこにはバレンボイムを真ん中にオーケストラの奏者たちが楽器を持って並んでいた。団員をたたえてということだろうが、これはめずらしい。
そういえば元旦のウィーンフィル・ニューイヤーコンサート、今年はバレンモイムの指揮で、最後は恒例の「ラデツキー行進曲」、このときバレンボイムは全く指揮をせずにオーケストラの中をひとりひとり握手してまわっていた。指揮をしなくてもこの曲は演奏できるということはわかっていても、こういう演出はにくい。
「指輪」の最後から続いているのだろうか。