メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

死ななかったドン・ジョヴァンニ

2015-08-05 13:16:37 | 音楽一般
昨日アップしたザルツブルグでの「ドン・ジョヴァンニ」で書きもらしたが、フィナーレで死んだはずのドン・ジョヴァンニが音楽が終わる前にむっくり起き上がり、観客に向かってにやりとし、相手の女たちなどにちょっと触って挨拶し、最後は宴の小間使いにちょっかいを出して階段の上に消えていく。
 
この種の演出は見たことがない。普通は騎士長と握手して、その手の冷たさにおののき、「悔い改めろ」と言われてもきかず、地獄に堕ちていく(舞台の奈落に消えていく)。そして、勧善懲悪のセオリーどおり、登場人物みなが唱和して終わる。
 
今回のように、このオペラでの三人の女性、それにレポレルロとドン・ジョヴァンニとの関係を考えてみると、そう単純ではなく、地獄に堕ちたのを喜ぶだけではないだろうと理解できる。それを追認する演出なのだろうか。
 
もっとも、何回か見ればそういう解釈に近いものは見る者にうまれてくるだろうから、ここまであからさまにしなくてもよい、という人もいるだろう。どちらがよいと決めることもできない。
 
もっとも、小さい劇場で、これはしょせんお芝居ですよ、いわば劇中劇ですよとドン・ジョヴァンニに言わせて印象づける演出は、一度経験してみるのもいいだろう。男にとって女は、深層心理では運命的、悲劇的なものだが、女道楽(失礼!)という言葉どおりの面もある、とモーツアルトが考えていてもおかしくない。その方が、こっちも考え込んでしまう。
 
騎士長の亡霊から言われて、それに応じてやろうと握手するのも、その前に宴を計画して招いてしまうのも、真面目なのか、おどけなのか、最後までわからないようにしたいのではないだろうか。宴の楽士たちに、観客の皆が知っている「フィガロの結婚」の一節を演奏させるのも、作曲家によるそういうおどけの伏線か。「もう飛ぶないぞ、この蝶々」、ドン・ジョヴァンニが蝶々だとしても、ケルビーノは飛ぶのをやめなかった。

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