モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」台本:ダ・ポンテ
指揮:クリストフ・エッシェンバッハ、演出:スヴェン・エリック・ベヒドルフ、装置:ロルフ・グリッテンベルク、衣装:マリアンネ・グリッテンベルク
イルデブランド・ダルカンジェロ(ドン・ジョヴァンニ)、ルーカ・ピサローニ(レポレルロ)、トマシュ・コニェチュニ(騎士長)、レネケ・ルイテン(ドンナ・アンナ)、アンドルー・ステープルズ (ドン・オッターヴィオ)、アネット・フリッチュ(ドンナ・エルヴィーラ)、ヴァレンティナ・ナフォルニツァ(ツェルリーナ)、アレッシオ・アルドゥイーニ(マゼット)
2014年8月ザルツブルク・モーツァルト劇場 2015年6月NHK BS
このところドン・ジョヴァンニのいい上演が続いている。2011年のスカラ座に続いてこのザルツブルクを見ることができたのはよかった。
スカラ座のものについてアップしたものを読み直してみると、このオペラのとらえ方として二つはほぼ同じといえる。ただ、スカラ座と違うのはあれほどのスター歌手ぞろいではないものの、舞台での動き、カメラのアップなどを総合すれば今回の方がバランスがとれている。
舞台、衣装の設定はやはり現代、ただ舞台装置はシンプルで初めから終わりまでそれほど変わらないものを照明などでうまく見せて変化をつけている。そして衣装はスカラほどの露出度ではないが、効果としては十分セクシーである。常に中央にある白い方形の床は、男女が登場すればベッドのシーツと考えてよい。
ダルカンジェロのドン・ジョヴァンニは容貌も男前でかつ相手を翻弄するユーモアがうまく出ており、これでは三人の女もレポレルロもまいってしまうのが納得できる。ピサロ-ニはダルカンジェロより少し背が高いが、顔つきも似ており、少し離れてみたり、眼鏡や衣装を交換したりすると、確かにうまく入れ替わることができる。舞台が南欧だからこれはいい。
さて三人の女性、フリッチュのエルヴィーラはこの男に対する愛憎が最初からはっきりしているが、色気もあり納得できる演技、ナフォルニツアのツェルリーナはドン・ジョヴァンニに一度声をかけられるともう地元のマゼットでは我慢ができない娘に見事変貌する。
そしてルイテンのドンナ・アンナ、この人の演技と役の解釈が一番面白かった。ドンナ・アンナはクールで身持ちの硬い美人、ドン・ジョヴァンニに部屋に侵入されて襲われ、それを追って殺されてしまう父の騎士長の復讐を追求していくという以上には、いくつかの録音、上演映像などでは印象が薄かった。スカラ座のネトレプコで少しイメージが変わったが、ルイテンはこのオペラでドン・ジョヴァンニによる「男」の本質に対する「女」の本質は明らかにドンナ・アンナが表象しているということを、この演出の乗って見事にわからせてくれる。
冒頭の場面、ジョヴァンニに襲われてもがくのだが、これが嫌悪だけだったのかと思わせる。そして思い切った演出は、騎士長に対してジョヴァンニは短刀を取り出し、ドンナ・アンナを盾のようにして彼女の手も短刀にからませ二人一緒に父の騎士長にぶつかっていく。これは「父殺し」か?
これが演じられるのは上記の白い方形の床、つまりベッドのシーツの上、ドンナ・アンナの衣装は赤である。実は何があったかの暗示は明らかだろう。嫌いな男ではあるが、深層心理では受け入れてしまった後の父殺し、最後の場面で騎士長の石像の首を取り上げ抱いてなぜ回す、つまりドンナ・アンナにとって男はすなわち父とドン・ジョヴァン二だけなのである。
ドン・ジョヴァンニが地獄へ落ちたのち、婚約者オッターヴィオからこれから一緒にと言われるが、自分は癒されることが必要だから1年待ってほしいと返す。女性からこう言われるということは、1年後はないということであろう。
こうしてみるとたいへんなオペラで、私にとっては、「ドン・ジョヴァンニ」があるからモーツァルトは偉大なオペラ作曲家なのである。
そして指揮のエッシェンバッハ、この1940年生まれのピアニストが指揮主体になってから随分経つ。ポジションからいけばここで指揮するのも不思議でないが、これほどとはうれしい驚きであった。とにかくドラマチックな起伏が少しも流れを途切れさせることなく、こんなに流麗に、ジェット・コースター・ドラマという形容は下品だが、レシタティーヴォさえもこんなにうまく流れていったかな、と思った。
ところでエッシェンバッハのピアノ演奏、デビューしてしばらくよく聴いたのはモーツァルト、ベートーヴェンそれもハンマー・クラヴィア、そしてシューベルトの長大なソナタ、シューマンの諸作品、これらはピアノの音やテクニックよりは、個性的な解釈で評価されたし、それゆえ好き嫌いがあったようだ。あまり一人の作曲家のあるジャンルを集中して多数録音そるということはなかったように思う。印象的なのは、シューマンの歌曲でフィッシャー・ディースカウの伴奏をした録音がいくつかあり、これは本当にすばらしいものだったこと。ショパンは少ないが「24の前奏曲集」は通しで聴くにふさわしい強い表現で、吉田秀和はこの演奏を「黒の詩集」と評した。
古いノートを繰ってみたら、1972年3月18日(土)東京文化会館でシューベルトのソナタ変ロ短調D.960、ベートーヴェンの「ハンマークラヴィア、1974年10月16日(水)日比谷公会堂でシューベルトの即興曲集、さすらい人幻想曲、ソナタイ長調遺作D.959、1977年3月21日(月)東京文化会館でベートーヴェンのソナタ「悲愴」、「熱情」、「ワルトシュタイン」、第32番(OP.111)、を聴いていた。いずれもいいプログラムである。こういう記録、いまのようにPCに入れていれば検索するのは簡単だが、ノートを繰るのはかなり大変である。それでも紙媒体のほうが無くなりにくいとは思う。
指揮:クリストフ・エッシェンバッハ、演出:スヴェン・エリック・ベヒドルフ、装置:ロルフ・グリッテンベルク、衣装:マリアンネ・グリッテンベルク
イルデブランド・ダルカンジェロ(ドン・ジョヴァンニ)、ルーカ・ピサローニ(レポレルロ)、トマシュ・コニェチュニ(騎士長)、レネケ・ルイテン(ドンナ・アンナ)、アンドルー・ステープルズ (ドン・オッターヴィオ)、アネット・フリッチュ(ドンナ・エルヴィーラ)、ヴァレンティナ・ナフォルニツァ(ツェルリーナ)、アレッシオ・アルドゥイーニ(マゼット)
2014年8月ザルツブルク・モーツァルト劇場 2015年6月NHK BS
このところドン・ジョヴァンニのいい上演が続いている。2011年のスカラ座に続いてこのザルツブルクを見ることができたのはよかった。
スカラ座のものについてアップしたものを読み直してみると、このオペラのとらえ方として二つはほぼ同じといえる。ただ、スカラ座と違うのはあれほどのスター歌手ぞろいではないものの、舞台での動き、カメラのアップなどを総合すれば今回の方がバランスがとれている。
舞台、衣装の設定はやはり現代、ただ舞台装置はシンプルで初めから終わりまでそれほど変わらないものを照明などでうまく見せて変化をつけている。そして衣装はスカラほどの露出度ではないが、効果としては十分セクシーである。常に中央にある白い方形の床は、男女が登場すればベッドのシーツと考えてよい。
ダルカンジェロのドン・ジョヴァンニは容貌も男前でかつ相手を翻弄するユーモアがうまく出ており、これでは三人の女もレポレルロもまいってしまうのが納得できる。ピサロ-ニはダルカンジェロより少し背が高いが、顔つきも似ており、少し離れてみたり、眼鏡や衣装を交換したりすると、確かにうまく入れ替わることができる。舞台が南欧だからこれはいい。
さて三人の女性、フリッチュのエルヴィーラはこの男に対する愛憎が最初からはっきりしているが、色気もあり納得できる演技、ナフォルニツアのツェルリーナはドン・ジョヴァンニに一度声をかけられるともう地元のマゼットでは我慢ができない娘に見事変貌する。
そしてルイテンのドンナ・アンナ、この人の演技と役の解釈が一番面白かった。ドンナ・アンナはクールで身持ちの硬い美人、ドン・ジョヴァンニに部屋に侵入されて襲われ、それを追って殺されてしまう父の騎士長の復讐を追求していくという以上には、いくつかの録音、上演映像などでは印象が薄かった。スカラ座のネトレプコで少しイメージが変わったが、ルイテンはこのオペラでドン・ジョヴァンニによる「男」の本質に対する「女」の本質は明らかにドンナ・アンナが表象しているということを、この演出の乗って見事にわからせてくれる。
冒頭の場面、ジョヴァンニに襲われてもがくのだが、これが嫌悪だけだったのかと思わせる。そして思い切った演出は、騎士長に対してジョヴァンニは短刀を取り出し、ドンナ・アンナを盾のようにして彼女の手も短刀にからませ二人一緒に父の騎士長にぶつかっていく。これは「父殺し」か?
これが演じられるのは上記の白い方形の床、つまりベッドのシーツの上、ドンナ・アンナの衣装は赤である。実は何があったかの暗示は明らかだろう。嫌いな男ではあるが、深層心理では受け入れてしまった後の父殺し、最後の場面で騎士長の石像の首を取り上げ抱いてなぜ回す、つまりドンナ・アンナにとって男はすなわち父とドン・ジョヴァン二だけなのである。
ドン・ジョヴァンニが地獄へ落ちたのち、婚約者オッターヴィオからこれから一緒にと言われるが、自分は癒されることが必要だから1年待ってほしいと返す。女性からこう言われるということは、1年後はないということであろう。
こうしてみるとたいへんなオペラで、私にとっては、「ドン・ジョヴァンニ」があるからモーツァルトは偉大なオペラ作曲家なのである。
そして指揮のエッシェンバッハ、この1940年生まれのピアニストが指揮主体になってから随分経つ。ポジションからいけばここで指揮するのも不思議でないが、これほどとはうれしい驚きであった。とにかくドラマチックな起伏が少しも流れを途切れさせることなく、こんなに流麗に、ジェット・コースター・ドラマという形容は下品だが、レシタティーヴォさえもこんなにうまく流れていったかな、と思った。
ところでエッシェンバッハのピアノ演奏、デビューしてしばらくよく聴いたのはモーツァルト、ベートーヴェンそれもハンマー・クラヴィア、そしてシューベルトの長大なソナタ、シューマンの諸作品、これらはピアノの音やテクニックよりは、個性的な解釈で評価されたし、それゆえ好き嫌いがあったようだ。あまり一人の作曲家のあるジャンルを集中して多数録音そるということはなかったように思う。印象的なのは、シューマンの歌曲でフィッシャー・ディースカウの伴奏をした録音がいくつかあり、これは本当にすばらしいものだったこと。ショパンは少ないが「24の前奏曲集」は通しで聴くにふさわしい強い表現で、吉田秀和はこの演奏を「黒の詩集」と評した。
古いノートを繰ってみたら、1972年3月18日(土)東京文化会館でシューベルトのソナタ変ロ短調D.960、ベートーヴェンの「ハンマークラヴィア、1974年10月16日(水)日比谷公会堂でシューベルトの即興曲集、さすらい人幻想曲、ソナタイ長調遺作D.959、1977年3月21日(月)東京文化会館でベートーヴェンのソナタ「悲愴」、「熱情」、「ワルトシュタイン」、第32番(OP.111)、を聴いていた。いずれもいいプログラムである。こういう記録、いまのようにPCに入れていれば検索するのは簡単だが、ノートを繰るのはかなり大変である。それでも紙媒体のほうが無くなりにくいとは思う。