オールド・ファッション 普通の会話 江藤淳/蓮實重彦 著 講談社文芸文庫
その存在を全く知らなかったこの対談、二人が1985年4月8日東京ステーションホテルに一泊し、列車の往来を見聞きしながら、夕食、ブランデー、チョコレート、客室での会話、朝食ととめどなく悠々と会話を続けた。こういう奇書が再録されるのはこの文庫、なかなかのものである。まあ200頁ちょっとで1700円というのはいい値段ではあるが。
そしてこの取り合わせも私には不思議なもので、蓮實重彦(1936-)については仏文学者だがどちらかというと映画評論家のイメージが強く、またそれなのに東大総長にもなったということくらいしか知らないから、さてどうなのか、と読み始めた。
江藤淳(1932-99)が書いたものは膨大で、そのごく一部しか読んでいないが、それでもかなりになり、一世代ちょっと下のものとしては少ないほうではないと思う。
多分鹿島茂だったかな、江藤の「・・・と私」というタイトルが苦手と言っていた。私もそうで、「アメリカと私」、「戦後と私」、「文学と私」、、、よく考えればそういう視点はありうるが、そういう大きな概念と「私」を対置して題名とするのはたいそうな、という感じで、この人のある一面を見せられるような気がした。「夜の紅茶」、また愛犬を表に出して書くというのも、こういう人としては気持ちが悪かった。
それから、男にマザコンの気味があるのは普通だが、その出し方がなにか言いたいことの本質にからめられており、ちょっと引いてしまうこともあった。とはいえ「成熟と喪失 母の崩壊」、「一族再会」などは読んだ。引っ越しや自分の年齢などからのいわゆる断捨離でほとんど処分してしまったが、かなり読んでいるはずである。
江藤を読んで面白かった、痛快だったのは、今はもうあまり見られない「こてんぱんにやっつける」ところであった。私の少青壮年期、各新聞の文芸時評や論壇時評、それに対する反論などで、異論、評価に値しないとの指摘などが飛び交い、それは面白かったし、世代としてはその若手の代表格が江藤であった。
そういう江藤に、わたしからすれば江藤ほど保守ではない蓮實はうまく受けてたち、自分も楽しみながら、話を広げていっている。それが「普通の」なのか、一部エクリチュールの話になったりするとよくわからないところはあるのだが、なんとかまた戻ってきて、まとまっていった。
ここの話で一つ中心になるものをあげれば、やはり昭和十年ころの、政治情勢からいくとかなり緊迫したように今からはみられる世の中が、一般の生活人にはのびのびしたところがあり、それはそこで生活した創作家のものに反映しているということだろうか。この二人の今にとってもそうなのだが。
それとやはり面白いのは、この時よりかなり前から江藤が容赦しなかった大江健三郎についてで、大江の師渡辺一夫への言及、これは蓮實もふくめて、へえーという感じだった。
ところで本書は週刊文春に長期にわたって毎週一頁連載されている坪内祐三「文庫本を狙え!」で12月に取り上げられたものである。ここで紹介されてその存在を知ったり、見直したりして読んでみた文庫本は少なくない。
その坪内祐三氏が1月13日に亡くなった。61歳、「靖国」も読ませたし、この世代で福田恆存に言及、評価する貴重な人でもあった。まだこれから本の紹介、書評など楽しみにしていたが。
謹んで冥福を祈りたい
その存在を全く知らなかったこの対談、二人が1985年4月8日東京ステーションホテルに一泊し、列車の往来を見聞きしながら、夕食、ブランデー、チョコレート、客室での会話、朝食ととめどなく悠々と会話を続けた。こういう奇書が再録されるのはこの文庫、なかなかのものである。まあ200頁ちょっとで1700円というのはいい値段ではあるが。
そしてこの取り合わせも私には不思議なもので、蓮實重彦(1936-)については仏文学者だがどちらかというと映画評論家のイメージが強く、またそれなのに東大総長にもなったということくらいしか知らないから、さてどうなのか、と読み始めた。
江藤淳(1932-99)が書いたものは膨大で、そのごく一部しか読んでいないが、それでもかなりになり、一世代ちょっと下のものとしては少ないほうではないと思う。
多分鹿島茂だったかな、江藤の「・・・と私」というタイトルが苦手と言っていた。私もそうで、「アメリカと私」、「戦後と私」、「文学と私」、、、よく考えればそういう視点はありうるが、そういう大きな概念と「私」を対置して題名とするのはたいそうな、という感じで、この人のある一面を見せられるような気がした。「夜の紅茶」、また愛犬を表に出して書くというのも、こういう人としては気持ちが悪かった。
それから、男にマザコンの気味があるのは普通だが、その出し方がなにか言いたいことの本質にからめられており、ちょっと引いてしまうこともあった。とはいえ「成熟と喪失 母の崩壊」、「一族再会」などは読んだ。引っ越しや自分の年齢などからのいわゆる断捨離でほとんど処分してしまったが、かなり読んでいるはずである。
江藤を読んで面白かった、痛快だったのは、今はもうあまり見られない「こてんぱんにやっつける」ところであった。私の少青壮年期、各新聞の文芸時評や論壇時評、それに対する反論などで、異論、評価に値しないとの指摘などが飛び交い、それは面白かったし、世代としてはその若手の代表格が江藤であった。
そういう江藤に、わたしからすれば江藤ほど保守ではない蓮實はうまく受けてたち、自分も楽しみながら、話を広げていっている。それが「普通の」なのか、一部エクリチュールの話になったりするとよくわからないところはあるのだが、なんとかまた戻ってきて、まとまっていった。
ここの話で一つ中心になるものをあげれば、やはり昭和十年ころの、政治情勢からいくとかなり緊迫したように今からはみられる世の中が、一般の生活人にはのびのびしたところがあり、それはそこで生活した創作家のものに反映しているということだろうか。この二人の今にとってもそうなのだが。
それとやはり面白いのは、この時よりかなり前から江藤が容赦しなかった大江健三郎についてで、大江の師渡辺一夫への言及、これは蓮實もふくめて、へえーという感じだった。
ところで本書は週刊文春に長期にわたって毎週一頁連載されている坪内祐三「文庫本を狙え!」で12月に取り上げられたものである。ここで紹介されてその存在を知ったり、見直したりして読んでみた文庫本は少なくない。
その坪内祐三氏が1月13日に亡くなった。61歳、「靖国」も読ませたし、この世代で福田恆存に言及、評価する貴重な人でもあった。まだこれから本の紹介、書評など楽しみにしていたが。
謹んで冥福を祈りたい