ワーグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」
指揮:ファビオ・ルイージ、演出:ポール・カラン
トーマス・ガゼリ(オランダ人)、マージョリー・オーウェンズ(ゼンタ)、ミハイル・ペトレンコ((ダーラン)、ベルンハルト・ベルヒトルト(エリック)、アネッテ・ヤーンズ(マリー)、ティモシー・オリヴァー(舵取り)
フィレンツェ五月祭管弦楽団・合唱団、アルス・リリカ合唱団
2019年1月10,13日 フィレンツェ五月音楽祭会場 2021年1月 NHK BSP
「オランダ人」はしばらく聴いてなかった。ワーグナーの出世作ということだが、今回こうして聴くと流れがよく、飽きることがない。そんなに長くないのもいい。
漂流船のオランダ人船長が嵐で避難しているところで、近くの船と船長に出会う。オランダ人は船で漂流を続けなければならない運命にあるのだが、船長が一晩の宿を与えてくれ、娘と一緒になれれば救われ、財宝をあげる、という話になる。そして一緒に帰り着く船長宅には娘のゼンタが他の娘たちと機織りをしており、伝説の漂流する船長の絵にうっとりしあこがれていることがわかる。
その後はかってゼンタに惚れたエリックがからみ、オランダ人は娘の誠を得られなかったとして去っていくが、ゼンタが身を投げ、彼は救われる。
あまり具体的な演技のやりとりがない中で、二つの思い、幻想がからまるわけだから、これはシンプルな歌唱のやりとり、合唱、とりわけオーケストラの役割が大きくなる。
オランダ人、船長(ダーラント)、ゼンタの歌唱は訴えるものがあっていい。もっとも風貌からいうと、オランダ人は年配に見えすぎるし、ゼンタは可憐というよりオランダ人より背が高く割腹もいい。ただそれは演出上そんなに問題でないと判断したのだろう。ゼンタの歌唱は通常ではもう少し可憐な感じなのだろうが、オーウェンズの強くアクセントがきいたものものも、演出か指揮者の要求なのかもしれない。それはそれとして聴けばいい。
今回一番印象的だったのは指揮のファビオ・ルイージで、どうしちゃったの?と思うくらい素晴らしい。ゆるみのない進行、強弱、ソロの歌手たちのサポートとドライヴ、合唱のあおりなど。
もともとかなりの指揮者だし、メトロポリタンではあの話題を呼んだルパージュ演出の「指輪」で、レヴァインが二つを指揮した後背中だか腰だかの障害で出来なくなって、あと二つをルイージがしっかりカヴァーした。その後もいくつかこなしている。イタリア人だからこのフィレンツェという場も加わってということなんだろうか。
演出は最初の避難港、帰航した港、船長の自宅。機織り場など、そう変化をつけるわけにいかない作品だが、風と波の嵐については今の映像技術を駆使して迫力を出している。機織りの女性たちだけ衣装が当時でなく100年前くらいか?膝下くらいの短いスカート、短髪となっており、つまりシャネルの時代で、働く女性の意識の表現を図ったのだろうか。
全体として感じたのは、オランダ人のどうしようもない運命感と救済願望、ゼンタの自己犠牲願望をより強く表出しようということだろうか。自己犠牲も後のブリュンヒルデになると複雑になって来るのだが。
この「オランダ人」と比べると、同じ荒れ狂う海に対するものでも「アメイジング・グレイス」は幸福感の方に行っていて、これは賛美歌である。
フィレンツェ五月祭なのにどうして1月?と思ったのだが、ここは座付きオーケストラの名前でありながら常設なのだそうだ。
ところで、以前どこかの空港でKLMオランダ航空の飛行機が近くにいて、機体を見るとなんと「Flying Dutchman」! 安全第一の航空機に縁起でもないと思ったのだが、このあたり意気なのかユーモアなのか、どうだろう。その後世界の中では誤解する人もということで、コントロールしているらしいが、まったく使わなくなったわけではないようだ。
指揮:ファビオ・ルイージ、演出:ポール・カラン
トーマス・ガゼリ(オランダ人)、マージョリー・オーウェンズ(ゼンタ)、ミハイル・ペトレンコ((ダーラン)、ベルンハルト・ベルヒトルト(エリック)、アネッテ・ヤーンズ(マリー)、ティモシー・オリヴァー(舵取り)
フィレンツェ五月祭管弦楽団・合唱団、アルス・リリカ合唱団
2019年1月10,13日 フィレンツェ五月音楽祭会場 2021年1月 NHK BSP
「オランダ人」はしばらく聴いてなかった。ワーグナーの出世作ということだが、今回こうして聴くと流れがよく、飽きることがない。そんなに長くないのもいい。
漂流船のオランダ人船長が嵐で避難しているところで、近くの船と船長に出会う。オランダ人は船で漂流を続けなければならない運命にあるのだが、船長が一晩の宿を与えてくれ、娘と一緒になれれば救われ、財宝をあげる、という話になる。そして一緒に帰り着く船長宅には娘のゼンタが他の娘たちと機織りをしており、伝説の漂流する船長の絵にうっとりしあこがれていることがわかる。
その後はかってゼンタに惚れたエリックがからみ、オランダ人は娘の誠を得られなかったとして去っていくが、ゼンタが身を投げ、彼は救われる。
あまり具体的な演技のやりとりがない中で、二つの思い、幻想がからまるわけだから、これはシンプルな歌唱のやりとり、合唱、とりわけオーケストラの役割が大きくなる。
オランダ人、船長(ダーラント)、ゼンタの歌唱は訴えるものがあっていい。もっとも風貌からいうと、オランダ人は年配に見えすぎるし、ゼンタは可憐というよりオランダ人より背が高く割腹もいい。ただそれは演出上そんなに問題でないと判断したのだろう。ゼンタの歌唱は通常ではもう少し可憐な感じなのだろうが、オーウェンズの強くアクセントがきいたものものも、演出か指揮者の要求なのかもしれない。それはそれとして聴けばいい。
今回一番印象的だったのは指揮のファビオ・ルイージで、どうしちゃったの?と思うくらい素晴らしい。ゆるみのない進行、強弱、ソロの歌手たちのサポートとドライヴ、合唱のあおりなど。
もともとかなりの指揮者だし、メトロポリタンではあの話題を呼んだルパージュ演出の「指輪」で、レヴァインが二つを指揮した後背中だか腰だかの障害で出来なくなって、あと二つをルイージがしっかりカヴァーした。その後もいくつかこなしている。イタリア人だからこのフィレンツェという場も加わってということなんだろうか。
演出は最初の避難港、帰航した港、船長の自宅。機織り場など、そう変化をつけるわけにいかない作品だが、風と波の嵐については今の映像技術を駆使して迫力を出している。機織りの女性たちだけ衣装が当時でなく100年前くらいか?膝下くらいの短いスカート、短髪となっており、つまりシャネルの時代で、働く女性の意識の表現を図ったのだろうか。
全体として感じたのは、オランダ人のどうしようもない運命感と救済願望、ゼンタの自己犠牲願望をより強く表出しようということだろうか。自己犠牲も後のブリュンヒルデになると複雑になって来るのだが。
この「オランダ人」と比べると、同じ荒れ狂う海に対するものでも「アメイジング・グレイス」は幸福感の方に行っていて、これは賛美歌である。
フィレンツェ五月祭なのにどうして1月?と思ったのだが、ここは座付きオーケストラの名前でありながら常設なのだそうだ。
ところで、以前どこかの空港でKLMオランダ航空の飛行機が近くにいて、機体を見るとなんと「Flying Dutchman」! 安全第一の航空機に縁起でもないと思ったのだが、このあたり意気なのかユーモアなのか、どうだろう。その後世界の中では誤解する人もということで、コントロールしているらしいが、まったく使わなくなったわけではないようだ。