こんばんは。
来週後半から佐賀新聞カルチャー→佐賀ヨーガ連盟大会→八戸→盛岡の集中ゼミになりますので大分早めに18日の「ヨーガまんだら」講座のテキスト作りに入っています。
ひろさちや先生の本を読んでいたらおかしくておかしくて…
イスラム教徒はコーランによって豚肉を徹底して食べないそうですが、
あるイスラム教徒の留学生を、アメリカ人がからかったそうです。
自宅に招待して彼に牛肉をご馳走しました。イスラム教徒は「おいしい!おいしい!」と舌鼓をうちながら食べていました。
その時アメリカ人が言いました。
「君が食べている、その肉は豚肉だよ」と。
アメリカ人は冗談を言ったつもりでしたが、イスラム人はその途端、激しく嘔吐し、心筋梗塞まで起こしたそうです。病院に運ばれ一命をとりとめたそうですが…。
果たしてこのイスラム教徒の心に何が起こったのか?
アメリカ人に言われた時点で牛肉が豚肉に変わったのか?
そんなはずはないけれど…ひょっとしたら彼にとっては嘔吐したかぎり、牛肉が途中から豚肉になったのかもしれない。そう考えるといったい「認識」とは何か?といった疑問を根本的に問い直す必要がありそうだ!…と。
その「認識」の構造をうまく説明したのが瑜伽行唯識派の「阿頼耶識」説だ…とも。
ひろさちや先生のお話は面白いですね。
さて、ヨーガは「自由人」になる教えだとも思いますが、この「自由人」の認識も難しいですね。自由奔放に生きる「自然人」を自由人だと誤認したら大きな落とし穴に落ちそうです。
大分前に確か投稿したことがあると思います。
社会的にも、個人的にも、あまりにも、単純で何の気づきも持たない人で、いわゆる自己チュウーと言われる「自然人」
知的葛藤や、鋭敏すぎる神経からくる苦しみのために、自他共にいらいらした不愉快な生活を送らなければならない「知識人」。
のびのびとした自由を満喫しながら他者ともうまくコミュニケートでき、若々しい生気に満ち、内にたぎるようなエネルギーを秘めた、活動人こそ「自由人」
ヨーガの理想とするのはまさにこの「自由人」なんですね。(荻山貴美子)