それは 『ちいさいおうち』 という絵本だった。
そのちいさいおうちは、
田舎の静かなところに建てられた
小さいけど綺麗でとても頑丈な家。
その小さい家からは、自然の四季折々の風景が見えて
それを毎日眺め、そして時々都会の光景に
憧れを抱きながら静かに幸せに暮らしていた。
でもだんだんと時がたつにつれ周りの状況が変わってくる。
小さい家の周りには大きなビルやマンションが立ち並び
そして家の前には道路が作られ車やトラックが走る。
家の上にも下にも地下鉄や線路が作られ
電車がひっきりなしに走り家を揺らす。
もう、空を見上げてもお日様は
ビルの隙間からわずかにしか見えなくて
月も星も周りが明る過ぎて見えなくなっていた。
その頃にはもうその小さな家には誰も住んでいなくて
その小さな家はボロボロになりみすぼらしくなっていた。
そこにそのちいさなおうちを建てた主人の孫の孫の孫が現れる。
その孫の孫の孫はその小さな家をジャッキを使い車に乗せ
自然あふれる静かな場所に移し、家も綺麗に直すと
またその小さな家には人が住み始めた。
その小さな家は以前と同じように
毎日四季折々に咲く花を眺め、自然を感じ、
お日様を眺め、月や星を眺め
もう都会に憧れを抱くこともなくいつまでも静かに幸せに暮らした。
そんな話を大野さんの家でウトウトしながら
聞いていたせいだろうか夢を見た。
ちいさなおうちには大野さんと自分とカズナリくんがいて
小さな丸いテーブルを囲んで3人で食事をしていた。
そのちいさなおうちの窓からは光が優しく差し込んでいて
テーブルの上にはパンとスープとサラダとハムと
色とりどりの果物が並んでいた。
大野さんは、なぜだかひらひらの可愛らしいエプロンを付けていて
右手には小さな可愛らしいポットを持っていた。
そして紅茶だろうか温かさそうな湯気をただよわせながら
ティーカップに注いでいる。
窓からは柔らかな風がふんわりと入ってきて
白いレースのカーテンを優しく揺らしていた。
食卓ではカズナリくんが小さな口を大きく開けて
パンを一生懸命ほおばっていて
それを大野さんが優しい笑顔で見守っている。
俺もそれを見ている。
そんなまるで日曜の朝の幸せ家族のような夢。
寝る前にあの絵本の事を考えていたせいだろうか。
それとも3人でテーブルを囲んでカレーライスを
一緒に食べたせいだろうか。
大野さんがかいがいしくカズナリくんのお世話を
しているのを見たせいだろうか。
自分の思い描いていた将来の想像図とは全然違うのに
朝目覚めると何だかとても幸せな気持ちだった。
いつか自分が家庭を持ったら? なんてそんな事
今まで全然想像もしたこともなかったけど
なぜだか大野さんと自分とカズナリくんの3人の生活は
容易に想像できた。
そんな事は絶対あり得るはずがないのに、と
そう思いながら自分自身に苦笑いした。
あの日
『俺と付き合ってるってことに』
『俺と恋人同士ってことにしておけばいい』 と
そう大野さんに言ったら大野さんはびっくりした顔をして
目を大きく見開いた。
そして、「櫻井って、面白いね」 と目
をまん丸くさせたままそう言ってくすっと笑った。
「……」
かなり考えて、一番いいと思って言った事なのに…と
少し不満に思いながら大野さんを見ると
まだおかしそうにクスクスと笑っていた。
その顔を見ながらやっぱり可愛いなと思う。
「いや、最初に櫻井がここの部署に入ってくるって聞いた時さ」
「……?」
そして大野さんが突然そんな事を言い出したから
何だろうと大野さんの顔を見る。
「頭が良くてクールでカッコいい人が入ってくるって噂だったんだ」
「え?」
そう言って大野さんがくすっと笑った。
何で今、その話を?
そう思いながら何と言っていいかわからず
ただ大野さんを見つめる事しかできない。
「で、どんな人なんだろうってずっと興味があってさ」
「……」
大野さんはそのまま話し続ける。
でもそうは言っても如月課長の送別会まで
ほとんど話もしたこともなかったのにと
信じられないような気持ちで大野さんを見た。
「でも、その頭が良くてクールでカッコいい人がさ
いつも俺の想像の斜め上をいってくるから何だかおかしくて」
「……」
そう言って大野さんは可愛らしくクスクス笑った。
でも想像の斜め上ってどういう事だろう。
確かに今回は自分でも突拍子もない事を言ってしまったとは思うけど
自分じゃ割と常識人だと思っていたし周りからもそう言われてた。
「じっと見つめてきたと思ったらツーンとそっぽむかれて避けられたり」
「それは…」
大野さんがおかしそうにそう話し出す。
でもそれは大野さんが揶揄うようなそぶりをするからムカついていたからだ。
「かと思えば俺が在宅勤務になるのはもったいないからって
協力するなんて言い出してさ。
そうかと思えば最近はやけにむっとした顔で見られるし。
で、もしかして嫌われてんのかな?って思ったら
こうして家までやって来て普通にカレー食べてるし」
そう言って大野さんはおかしそうにくすくす笑った。
言いたいこともいっぱいあったような気がしたけど
その可愛らしく笑う姿を見たら
もう何も言えねえという気持ちになる。
「でもね、恋人同士のふりって言うのは、反対。彼女さんにも悪い」
「でも、もう彼女とは別れてます」
「そうなの?」
そういうと大野さんが意外そうな顔をする。
「はい、だから大丈夫です」
「でも噂はどう尾ひれがついて広まるかわからないから。
俺はもともと結婚する気も願望もないから大丈夫だけど
櫻井は違うでしょ?」
「……」
「だから、却下」
「でも…」
大野さんはきっぱりとそう言った。
確かに大野さんの言いたいことはわかる。
「今は彼女がいないからいいのかも知れないけど
もしそういう噂が嘘だとしても広まったら
結婚したいって女性が現れた時にネックになるよ?」
「……」
「ま、俺はまた櫻井の想像の斜め上をいく言葉を聞けて面白かったけどね」
そう言って大野さんはくすっと笑った。
確かに自分でもバカな事を言ってしまった思う。
でもなぜだかわからないけど大野さんの前だと調子が狂う。
大野さんを助けたいと願うばかりに正常な判断ができなくなる。
今日も高山さんが大野さんにくっついて話しかけている。
今まではその姿を見るたびにイライラしてムカついていたけど
でも今は違う。
どうすればいいのだろう。
大野さんがいなくなってしまうのは何だかやっぱり寂しい気がした。
でも家庭の事情もある。
高山さんの事もある。
でも、それだけじゃない。
在宅勤務にはなってほしくなかった。
その日はなぜか 『ちいさいおうち』 という絵本の事を考えていた。
なんでこんな事思うのかわからない。
ずっと
普通に学校を卒業して
普通に就職して
普通に恋愛して
普通に結婚して
普通に家庭を持つものだと
そう思っていた。
そしてそれが自分のレールの上の人生だと思っていた。
だから
普通に学校を卒業して
普通に就職して
普通に恋愛して
普通に結婚して
普通に家庭生活を送っていくものだと
決められたレールの上をまっすぐ歩いていくものだと
ずっとそう思っていた。
でも。
その部屋には大野さんとカズナリくんがいて
大野さんはいつもどんな時も慈しむようにカズナリくんを見ていた。
そこには優しい空気が常にあふれていてキラキラ輝いていた。
そしてその中に自分も入りたいと思った。
あの日の夢で見たような
小さな家の中で柔らかな日差しが差し込む部屋の中で
優しい空気に包まれながら3人で食事をする。
そんな生活がしたいと思った。
そんなバカな事と
そんなのは自分のレール上にはあり得ないのにと
そう首を振りながらも
大野さんの作ったカレーが甘くて
懐かしくて
おいしくて
幸せだった。
大野さんのカズナリくんを見るまなざしが
取り巻く空気が
触れる手が
すべてが優しくて
その中に自分も入りたいと思った。
あの日。
大野さんが、『人生に悩んでいる顔をしている』 と、言った。
そして、『茨の道に進もうかどうしようか悩んでいる?』 と、問いかけた。
そのちいさいおうちは田舎で静かに幸せに暮らしていた。
でも都会に憧れを抱いて、そしていざその中に入ると
想像とは全然違って住みにくくてやっぱり元の生活の方が
幸せだと気付く。
自分もそうなのだ。
普通にレールの上の人生を歩いて行けば
きっとそれなりに幸せで安定した人生が送れるはずなのだ。
でももし違う道に行ってしまったら?
ましてや
子供(自分のではないけど)がいる男の人なんて
それは、茨の道でしかない。
それに相手の気持ちもある。
お互い両親や兄弟もいる。
生活もある。
大野さんとどうこうなりたい訳じゃない。
でも。
「大野さん」
大野さんの姿を見つけると思わず駆け出していた。