小屋に帰ってくると懐かしい匂いがした。
部屋は智が住んでいた時と全く変わらない。
帰ってきた。
そう、智は実感した。
マサキは仕事をしているのか小屋の中にはいなかった。
ふとテーブルにある一つの小瓶が目に入った。
「……!」
それは自分が人魚から人間になるために
魔女からもらった小瓶と同じものだった。
なぜこれがここに?
絶句したままその小瓶を見つめる。
「これは、マサキが貰ってきてくれたんだよ」
翔が小瓶をつかみそう言った。
マサキが貰ってきた?
意味が分からず呆然と翔の顔を眺める。
「マサキは智が人間でない事を最初から知ってたんだ」
「……!」
マサキも自分が人間でないことを知ってた?
絶望で目の前が真っ暗になる。
「……」
「……」
智は自分が人間ではないという現実を
またも突きつけられ逃げ出したい気分になった。
その智を翔は静かな眼差しで見つめる。
「智は人間でないという事を凄く気にしてるよね?」
「……」
そんな事当たり前だ。
人間でないとバレてしまったら一緒になんて
とてもいられるはずはなかった。
今だって翔に知られてしまっているのに
ここにいていいのかとずっと悩んでいる。
「でもマサキはそんな事全然気にしていなかったよ。
もちろん俺もだけど」
「……」
気にしていない?
マサキも、そして翔も?
確かにマサキは最初から普通に
そして優しく自分に接してくれていた。
でもまさか、その時から人間でないと分かっていたなんて。
智は呆然と翔を見つめる。
「ただ、それよりも智が口も聞けず
足の痛みを抱えながら生きているのを
凄く気の毒がっていた」
「……」
「だから、それはマサキが智の足の痛みがなくなって
口がきけるようになるようにと、魔女からもらってきたんだよ」
「……!」
魔女から、自分のために薬を?
そんな危険な事を自分の為にするなんて
信じられなかった。
「マサキは智が幸せになる事だけを願ってた」
「……」
「だから、智にこの薬を飲んで欲しいって言ってたよ」
「……!」
翔はそう言って小瓶を智に差し出す。
マサキが魔女からもらってきた薬を?
これを飲むと足の痛みも消え話せるようになる?
翔のその言葉に、智は首をフルフルと振った。
「何で? 智は話せるようになりたくはないの?
足の痛みもなくなるんだよ?」
「……」
それでも智は首を振り続ける。
「……何で?」
翔は何故飲まないの? と
不思議そうに智を見つめた。
智は
智はそれよりもマサキの事が気になって仕方が無かった。
『マサキハ、ドコ?』
智はコミュニケーションをとるのに便利だからと
潤に教えてもらった字を書き翔に聞く。
「……マサキは今はここにいない」
『オシエテ』
「……」
智は必死な顔で頼む。
あまりの必死さに根負けし
翔はマサキのいる場所に連れて行った。
そこは人里離れたところにある小さな小屋だった。
ここにマサキがいる?
マサキは無事なのだろうか?
智はマサキの顔を見るまで気が気ではなかった。
魔女にもらったという小瓶。
それを飲めば足の痛みもなくなり
言葉も以前と同じように話せるようになるという。
そんな都合のいい薬
魔女がただでくれるとは到底思えなかった。
小屋の前に立ち扉を必死にノックする。
どうか無事でいてほしい。
祈るような気持ちで待つ。
するとゆっくりと扉が開いた。
マサキだ。
無事だったんだ。
智はほっと胸をなで下ろす。
マサキは智の姿を見てびっくりしたような表情を浮かべた。
「……智?」
「……」
「智?」
「……」
マサキが何度名前を呼んでも智は頷くだけで言葉を発しない。
「智、薬を飲まなかったんだね?」
「……」
マサキが優しくそう言うと、智は小さく頷いた。
「もしかして俺のことを気にして飲まなかったの?」
「……」
智は黙ったままマサキを見つめる。
「なあ、智?」
「……?」
「俺には妻も子供もいない。
それにこの年まで生きてこられた」
マサキはまっすぐ智を見つめると優しく語りだした。
それを智はじっと見つめ聞く。
「でも、智はこれからの人だ。
このまま人間界で生きていくつもりなんだろう?」
「……」
智はマサキの目を見て、そして小さく頷いた。
「だったら話せたほうがいい。
足の痛みもない方がいい。そうだろ?」
「……」
その言葉に、智は首を振った。
「……そうか」
マサキは翔と顔を見合わせる。
多分どんなに言っても智はマサキへの影響を考え
決して自分のために薬を飲むということはないだろう。
智は帰ろう?とマサキの手を引く。
マサキは、仕方ないなと優しく微笑むと
帰ろうと頷いた。
いつものように智が庭を綺麗にしていると翔が現れる。
智は翔に促されるようにベンチに一緒に座った。
「ね、智?」
「……?」
話しかけられ智が翔を見る。
「ずっと、ここにいて」
「……」
翔のその言葉に智は戸惑い俯く。
本当に、ここにいていいのだろうか。
今は人間の姿をしているとは言え人魚だ。
しかもその事実を知られてしまっているのに
果たしてここにいてもいいのか。
そんな権利が自分にはあるのだろうか。
答えが見つからなかった。
「俺が智の事守るから、俺とずっと一緒にいて」
「……」
智は頷くことができなくて翔を見つめた。
「俺の事嫌い?」
翔は不安そうに智に聞く。
その言葉に智は違うと首をブンブンと振る。
「……好き?」
翔は躊躇いながらも小さな声で智に問う。
智は小さく頷いた。
「ホント? 本当に俺のこと好き?」
「……」
智が真っ直ぐに翔を見て、うんと頷くと
翔の顔が嬉しそうにぱぁぁと赤くなった。
「信じらんないよ。嬉しいよ」
そう言うと翔は今にも踊りだしそうな勢いで走り出した。
その姿をじっと見つめた。
そう。
翔のことが初めて見た時から好きだった。
だからたとえ家族と離ればなれになってしまっても
口がきけなくても、足が痛くても
泡となって消えてしまう可能性があっても
人間になりたかった。
「ね、智」
「……」
翌日も翔は智に会いに来る。
「俺と結婚して」
「……」
その言葉に智は驚きの表情を浮かべた。
そして少し考えるような顔をして首を振った。
「ダメなの?」
「……」
翔は悲しそうに聞く。
当たり前だ。
今は人間の姿をしているとは言え人魚だし、しかも男だ。
『翔ハ次期王ニナル』
翔は一国の国を支配する国王の長男だ。
後継者の事などを考えたらとても、はいとは言えない。
智は紙に書いた。
「次期王? 王は弟がなるんだよ?」
「……?」
「俺はずっと引きこもりだったし
それは前から決まってたんだ」
「……」
そう言えばそのような話を以前マサキから聞いたことがあった。
でもだからと言って自分のようなものと
結婚なんてしていいものなのか。
「あの庭園、両親がえらく気に入っててさ。
智が作ったんでしょ? あの薔薇のアーチとか」
「……」
そんな事を思っていたら翔が突然庭の話を始めた。
「それが素晴らしいから、もっとひろげてほしんだって」
「……?」
「何か、智のセンスをすごくかってるみたい。
まあ、そのおかげで追い出されなくて済んだんだけど。
智とのことも許してもらえたし」
「……?」
そう言って翔はふふっと笑った。
「でもそれだと周りに示しが付かないからって
あの小屋の隣にもう一つ小屋を作ってもらって
そこが俺たちの住居になるんだけど…」
「……」
「で、これまでどおり智は庭の仕事して
俺がアシスタントだってさ」
「……」
「王位は弟が継承して
3年くらいしたら城に戻って国の仕事を手伝えだと。
それでもいい?」
「……」
信じられなかった。
まさか翔がそこまで自分との事を考えていたとは。
人間の姿をしてるとは言え人魚であることに
変わりはないし、ましてや男だ。
「智、愛してる。俺は智が人魚だって構わない」
「……」
そんな事を思っていると
翔がまっすぐな視線で智に言う。
「もう二度と大切なものは失いたくないんだ」
「……」
その言葉に智は俯く。
「どうしたの?」
『コドモデキナイ』
翔が心配そうに聞く。
智は紙に書いた。
「そんな事心配してたの?」
「……」
翔は驚いた顔をして智に聞いた。
智はこくんと頷く。
前に聞かされた話。
あんな話聞かされたら当たり前だろう。
「俺には智だけいれば十分だし
これ以上望むものなんて何一つないよ。
智がいなくなった時どんなにどん底だったか」
「……」
翔は智がいなくなった日のことを思い出していた。
智にこのまま会えなかったら辛くて悲しくて
もう二度と立ち直ることはできなかっただろう。
「まあ、それを両親が知ってるから
許してくれたっていうのもあるんだけどね」
そう言って翔は照れくさそうに笑う。
「……」
「それにウチには妹も弟もいる。
そのうち甥や姪を産んでくれるだろう。
だから智はそんな事気にしなくていいんだよ」
そしてそう言うと翔はにっこり笑った。
「兄ちゃん」
「……」
海岸で海を眺めているとカズがひょこっと
顔を出した。
「……」
「……」
カズが何か気づいたのか、黙ったまま見つめてくる。
「……喋れないってことはあの薬飲んでないんだね?」
「……!」
その言葉にびっくりしてカズを見つめる。
なぜその事をカズが知ってるのだろう?
「俺、ある人に頼まれたんだよ。どうしてもって。
でも、それを飲んだらその人がどうなるかわかんないよって言ったら
それでもいいからって言われてさ。
で、魔女にもらってきてその人に渡したんだ」
「……」
カズは智が驚きを隠せず不安そうな顔をしていたので説明した。
そうか。
マサキはカズに頼んであの薬を手に入れたのか。
智はようやく理解する。
「でも飲まなかったんだね」
「……」
「兄ちゃんらしいや」
「……」
智が小さく頷くと、カズはそう言ってクスッと笑った。
「ね、兄ちゃん。今、幸せ?」
「……」
カズのその言葉に躊躇いながら
智は小さく頷く。
「ふふっよかった。いい顔してる」
「……」
カズはそう言って笑う。
「話すことができなくても、足が痛くても幸せなんだね?」
「……」
そして、確かめるようにもう一度カズが智に問いかけると
智は、うんとしっかりと頷いた。
「そっか。安心した」
そう言ってカズは、ほっとした表情を見せた。
智はその顔を見て随分カズにも心配をかけてしまったと
申し訳ない気持ちになった。
「さとし~」
遠くから智を呼ぶ声がする。
「あ、愛しい人がよんでいるんじゃない?」
「……」
カズがいたずらっ子みたいな目でそう言った。
その言葉に自分でも顔が赤くなったのがわかる。
「あの人と結ばれたから泡にならなかったんでしょ?」
「……!」
カズはそんな智に気にするふうでもなくそう言った。
「母ちゃんは教えてくれなかったけど魔女から聞いていたんだ。
だからもう二度と会えないんじゃないかって
すごく心配してた」
「……」
そしてやっぱり物凄く心配をかけてしまっていたんだと思い
智の表情が曇る。
「そんな顔しないで。兄ちゃんが
幸せだってわかったから俺は満足なんだよ。
父ちゃんや母ちゃんだって同じだよ」
「……」
「ね、そんな顔しないで。また来るから」
「……」
カズはそう言うと深い深い海へと帰っていった。
その姿を見つめた。
「智、寒くない? 足、痛いでしょ?
おんぶして帰ろっか」
翔が智のところまで走って駆け寄ってくる。
そしてあまりにも翔が過保護な事を言ってくるから
思わずクスッと笑ってしまう。
「今日は俺がご飯作ろうか?」
「……」
「あ、何その顔? 信用してねえな」
「……」
そして突然ご飯を作るとか言い出してくるから
思わずクスクスと笑い続けていると
翔も照れくさそうに笑った。
翔が手を差し出すと
智も手を伸ばす。
ぎゅっと二人で手をつないだ。
智が翔の顔を見ると翔はやっぱり照れくさそうに笑う。
智は人魚の自分が人間界でこんな幸せでいいのかと悩む。
海底には今も家族が住んでいる。
心配もたくさんかけてしまった。
そして潤や潤の父親の事も気になっていた。
両親の反対を押しきり勝手に人間になって
潤をはじめたくさんの人間にも迷惑をかけてしまった。
自分には人間界で幸せになる権利など
ないのではないかとずっと思い悩んでいた。
ずっといつか泡となって消えてしまうと覚悟しながら
毎日過ごしていた。
そんな事を考えていると、翔がすかさず心配いらないよ。
大丈夫だよと言って優しく抱きしめてくれる。
翔の顔を見ると翔も優しく見つめる。
あんな事があったせいか
いつもいつも翔は智を丁寧に優しく扱う。
一緒にベッドに入ると優しく包み込むように抱きしめてくれる。
その手は
その身体は
いつもいつも、とてつもなく優しくてあたたかい。
その優しさに触れると涙が出そうになる。
智が上を見上げると、翔の優しい顔がある。
頬に手をやり軽く自分から口を開く。
翔が遠慮がちにそっと唇を押し当てる。
智がぎゅっとその背中に手を回ししがみつくように
抱きつくと、優しくそしてやっぱり遠慮がちに翔の腕が
回ってきて優しく抱きしめてくれる。
その腕は
その唇は
やっぱりとてつもなく優しくて、あたたかくて
智の目から自然と涙が出た。
智の涙に気づくと翔はどうしたの?と心配そうに
優しく手で涙を拭ってくれる。
幸せだから
その一言が発せなくて、もどかしくて
まるで自分達みたいだと思い
思わずクスッと笑ってしまう。
翔は不思議そうな顔で見つめてくる。
だから何でもないよと首を振って
ぎゅっとまた翔に抱きつく。
翔も優しく抱きしめ返してくれる。
そしてお互い見つめ合う。
智の手が翔の首に周り引き寄せるようにすると
また優しい優しい口づけが降りてくる。
もっと強引でもいいのに
あの事を気にしているのか
翔はいつもいつも優しくて宝物のように大事に大事に
智を扱ってくれる。
それが嬉しくて、少しだけもどかしくて
『もっと強引でいいよ』
そう紙に書いたら
翔がそれを見て
照れくさそうに笑った。
そして
やっぱり宝物を扱うように優しくそっと抱きしめ
そして顔を近づけてくると
智の唇に、優しい優しい
キスをした。
オワリ。
ありがとうございました。