大野さんが望んだ以前のような関係になる。
特に仕事で絡みがなければ挨拶くらいで話をしない。
視線が合う事もない。
例え何かの拍子に偶然あったとしてもすぐにそらされる。
それはまるで赤の他人の様に。
他の同僚たちとは仲良く談笑しているのに
自分と大野さんの間には大きな壁があって
それはどんな壁よりも高くて厚い壁。
高山さんは相変わらず嬉しそうに大野さんのもとに行き
不必要なくらいの近距離で楽しそうに笑い、話している。
それを横目で見ながら何事もなかったかのように仕事をし
そして何事もなかったかのように仕事を終わらせ家へと帰る。
そして家に帰ると誰もいない部屋でコンビニで買った弁当を
ビール片手にただお腹を満たすためだけに食べる。
そんな毎日。
あの日。
あまりにも大野さんが必死に頼むからわかりましたと言うしかなかった。
大野さんがあまりにも真剣に頭を下げるから受け入れるしかなかった。
でも。
今日も帰る途中でテイクアウトした食事を食べながら
ビールを一缶、また一缶とあける。
誰か他の人と付き合えばいいのだろうけど
どんな綺麗な人に言い寄られても心は凍ったまま。
そして決してこちらをみようとはしない大野さんを見てまた心が沈む。
その美しい顔を見るだけで胸が締め付けられる。
その姿を見つめただけで心がえぐられるような気持になる。
何をしても心にぽっかりと穴が開いたまま何もできずにいる。
なぜあの時、大野さんがあんな風に自分に伝えたのか。
大野さんの言った本当の言葉の意味が分かってはいなかった。
この日は朝から何だか熱っぽかった。
最近寒暖の差が激しかったせいか風邪でもひいたのだろうか。
だるくて何もしたくない。体温を計ったら38度ある。
身体が思うように動かず何もできない。
食事を買いに行くこともできず
買ってあったミネラルウォーターももうすぐ底をつきそうだ。
大野さんもあの時こんな感じだったのかなと思う。
思うように身体が動かなくて辛くて。
でも何よりも辛かったのはカズナリくんの事だったのだろうと思う。
遊んであげたくても遊んであげられなくて
お世話をしてあげたくてもどうにもならなくて
誰かを頼りたくても頼れなくて。
だから自分が何とかしたいと思ったけど、でもそれも拒否されてしまった。
「言われたもの買ってきたよ」
そんな事をベッドに入りながら考えていたら妹がやってきた。
「悪いな、お金そこにあるから持っていって。カギは開けといていいから」
そう言ってベッドの中から顔だけを出し声をかける。
「……」
「……ん?」
「……」
「……?」
マイが黙ったまま何か言いたげな顔をした。
「病人に今こんな事言うのは非情かもしれないけどさ…」
「うん?」
そして言いにくそうに口を開いた。
「もう、こういう事するの、これが最後だと思う」
「え?」
その言葉に意味が分からず聞き返す。
「だって、私、来月結婚するんだよ?」
「知ってる」
マイが結婚することはもう1年も前から聞いていた。
「だったら普通無理だってわかるでしょ?」
「へ?」
「当たり前でしょ? 今まではできていたけど結婚して、ましてや子供とかできたら絶対無理だから」
「そんなぁ」
「そんなぁって、普通は婚約者がいる時点で遠慮するものなんだけど…」
そう、マイは困惑しながら言った。
そう言えば大野さんもそんなようなことを言っていたっけ。
家の事で協力したいって言ったらそんなのは無理に決まっていると。
家庭が第一になって他の家の事なんて構っていられなくなると。
家庭を持つってそう言う事だと。
「……」
「お兄ちゃんてそう言うところほんと鈍いよね」
そう、マイは呆れた顔をして言った。
マイが帰ってからマイに言われていたことを考えていた。
そして大野さんから言われたことを考えていた。
何で? 何で? と何度も問いかけ思い悩みながらも理解しようとしていなかった。
大野さんの言った言葉の真意がわからなかった。
でも今はなぜ大野さんがああ言ったのか。言わざるをえなかったのかわかる気がする。
決められたレールの上。
普通に誰かと出会って、恋をして普通に結婚して、普通に家庭生活を送る。
それがずっと自分が思い描いていた人生で
自分自身そういう人生を送るものだとずっと思っていた。
大野さんもきっとそう思っていたのだろう。
だから。
大野さんには仕事が終わったら家に行くと伝えた。
玄関でいいから会ってほしいと言った。
大野さんは相変わらず居心地の悪そうな顔をして戸惑っていたけど
今日だけどうしても話したいことがあるからとお願いした。
仕事が終わって大野さんの家に向かう。
ドキドキしながらインターホンをならす。
今までも何度か来たこの家。
ずっとこの家の優しい空気が好きだった。
そしてこの中に自分も入りたいとずっと思っていた。
だからもうここの家に来れないとわかった時は辛かった。
「夜分遅くにすみません。でもどうしても伝えたいことがあって」
そう言うと、大野さんがまた居心地の悪そうな顔をした。
そしてその居心地の悪そうな顔にいつも負けてしまって何も言えないでいた。
何で何でと思いながらその表情の意味を理解しようともしていなかった。
「俺、あの時大野さんの言った意味を考えていました」
「……」
「どういう意味か分からなくて、あの時は了承するしかなかったんです」
「……」
大野さんが戸惑いの表情を浮かべながら見つめる。
「でも、俺大野さんとずっと一緒に生きていきたいんです」
「……」
大野さんの目が大きく開く。
「大野さんと、カズナリくんと3人で一緒にずっと生きていきたいんです」
「……何だか」
「……?」
「何だか、プロポーズみたいな事言ってるけど…」
大野さんが困惑した顔を浮かべそう言った。
「ははっそうですね。でもずっと考えてました。
ずっと自分自身でも普通に結婚して普通に生きていくものだとそう思っていました。でも…」
「……」
そう言うと、大野さんの瞳が揺れる。
「でもそれだと意味がないんです。大野さんとカズナリくんと一緒じゃないと俺自身が幸せじゃないんです」
「……」
「……俺、夢をみたんです」
「……夢?」
その言葉に大野さんが怪訝そうな表情を浮かべた。
「大野さんが前カズナリくんに読んでいた、ちいさいおうちって絵本の夢です」
「……?」
「そのちいさいおうちの中で3人で仲良く暮らしている夢を見て、
それが現実になればいいなって、毎日そういう生活が送れたらいいなって、ずっと思っていました」
「……また俺の想像の斜め上をいく事を言う」
そう言うと大野さんがおかしそうにくすっと笑った。
確かに絵本の話が夢の話になるなんておかしな話かもしれない。
「……大野さんは、ダメですか?」
「え?」
「俺は、大野さんの事好きです」
「俺、男だけど…」
大野さんが戸惑うようにそう言った。
「知っています」
「それに、今まで人を好きになったことなんてないし…」
「はい、それも前聞きました」
「それに」
「……」
「もし、そうなったら茨の道だよ?」
そう言えば前にも一度言われたことがあった。
あの時はただ単に揶揄われたのだとばかり思っていた。
「……それ前にも言ってましたね?」
「……」
「なぜあの時大野さんがそう言ったのか、ずっと聞きたいと思っていました」
「……何でかな? 多分、櫻井はふつーにエリート人生を歩んで行ける人なのに
なぜだかそんな予感があったのかな」
そう言って大野さんが笑う。
「でも、茨の道でもいいんです」
「……」
「俺は大野さんがいいんです」
「……カズもいるよ」
「わかっています。それに俺、カズナリくんの事も凄く好きなんです。
公園で一緒に遊ぶのも、何気ない会話をするのも」
「ふふっへんなの」
「ははっそうですね」
そう言いながらも大野さんは嬉しそうだ。
大野さんが凄くカズナリくんの事を考えているのがよくわかる。
「でもカズも櫻井の事好きみたい。ずっと櫻井はいつ来てくれるんだってうるさくてさ」
「マジで?」
その言葉が何だか無性に嬉しかった。
「あまりにもしょおくんにあいたいあいたいって言うからさ、何だか妬ける」
そう言って大野さんは苦笑いを浮かべる。
「俺、13歳下に弟がいるんで、多分そのせいかも」
「13歳?」
大野さんがびっくりした顔で大きく目を開く。
「そうなんですよ。実家にいる頃よく相手をさせられていたんで」
「だからか~子供の扱いがやけに上手だと思った」
そう言って二人で顔を見合わせるとふふっと笑った。
その大野さんの笑顔を見ると何だか幸せな気分になる。
大野さんに向かって手を差し出すと
大野さんが少し躊躇いながら
同じように手を差し出した。
その手をぎゅっと握る。
「俺、大野さんが抱きついてくれた時、すごく嬉しかったんです」
そう言うと大野さんが照れくさそうに俯いた。
その大野さんを見つめながら大きく大野さんに向かって腕を広げた。
大野さんが少しびっくりした表情で顔を上げる。
でも
大野さんは少し躊躇いながらもゆっくりと身体を近づけてきた。
その近づいてきた身体を自分の方へ引き寄せぎゅっと力強く抱きしめた。
「あの時、本当はこうやって抱きしめたかったんです」
胸がドキドキしている。
「……!」
「ずっと俺が一緒にいるから大丈夫だと、そう言いたかったんです」
「……」
そう言うと顔を上げた大野さんの瞳が揺れた。
大野さんに向かって頷いて見せると大野さんの腕が
躊躇いながらもゆっくりと背中に回ってくる。
「大野さんが好きです。ずっと俺と一緒にいて下さい」
「……」
大野さんが腕の力を弱めゆっくりと身体を離し
そして顔を少し上に上げ見つめる。
「……」
「……」
「……俺も好き」
そして大野さんが躊躇いながら俺も好きだと言った。
「でも大野さんは人を好きになる事なんてないって…」
その言葉が信じられなくて半信半疑のままそう言うと
大野さんがぶるぶると首を横に振る。
「好きになってしまったから、もう、離れるしかないと思った」
「……!」
大野さんはそう言って瞳を揺らす。
ずっと避けられていたその視線。
その瞳には自分自身の顔が映っている。
その華奢な身体をぎゅっと強く抱きしめた。
そして強くその身体を抱きしめながら大野さんの言った言葉の意味を
あの時大野さんがなぜああ言わざるを得なかったのか考えていた。
だから、大野さんは。
しばらく抱きしめてからゆっくりとその身体を離す。
視線と視線が合う。
そのままそっと手を伸ばしその頬を手で包み込んだ。
大野さんがじっと見つめる。
その瞳に吸い寄せられるようにゆっくりと唇と唇を近づけていく。
そしてそのままその綺麗な唇に自身の唇をそっと重ねた。
唇が離れると大野さんが頬を染め照れくさそうに俯く。
もう一度その頬を包み込みその綺麗な顔を優しく上げた。
目が合うと二人で一緒にふふっと笑った。
嬉しくて、幸せだった。
頬を包み込んだまままたその唇に唇を重ねる。
ドキドキが止まらない。
ずっと諦めるしかないと思っていた。
こんな風に大野さんと過ごせるなんて思わなかった。
そう思いながらそのまま深いキスをした。
そしてまた好きだと言うと大野さんが見つめてくる。
その綺麗な顔に向かって顔を近づけるともう一度その唇にチュッとキスをした。
唇が離れると大野さんが照れくさそうに俺もと言って俯く。
可愛いなと思った。いつもの余裕のある大野さんとは全然違う。
避けられていた時の大野さんとも違う。
幸せだと思った。その身体を思う存分ぎゅっと力強く抱きしめた。
ずっと決められたレールの上の人生を歩んでいくものだと思っていた。
それなりの人と結婚して
それなりの家庭を作り上げていって
それなりの生活を送っていくと、ずっとそう思っていた。
でも
それは、本当の自分?
それが、本当の幸せ?
yes
→ no
おわり。