目黒川沿いに荏原神社、その西に海徳寺が、北に本光寺が位置する。
荏原神社は、和銅2年(709年)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龍神(龍神)を勧請し、長元2年(1029年)9月16日に神明宮、宝治元年(1247年)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至る。
北の天王社が品川神社で、南の天王社が荏原神社といわれた。
荏原神社は、和銅2年(709年)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龍神(龍神)を勧請し、長元2年(1029年)9月16日に神明宮、宝治元年(1247年)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至る。
北の天王社が品川神社で、南の天王社が荏原神社といわれた。
荏原天王祭は宝治元年、京都八坂神社より牛頭天王が当社に勧請されたことにはじまる。 大江戸夏祭りの花形として盛大を極め、現在でも海中渡御が行われており、かっぱ祭りとして名高いという。 | |
本光寺 三重塔 室町時代の永徳2年(1382)に、日蓮宗の日什が創建。 | |
日蓮宗の海徳寺は、自覚山松陽院と号す。 戦国時代の大永2年(1522)に、鳥海和泉守が京都から日増上人を迎えて自宅を寺としたことにはじまる。現在の本堂は、寛延4年(1751)に完成したもので、区内でも屈指の古い建物である。 「天上天下唯我独尊」の釈迦生誕像 この像は、著名な彫刻家・長谷川昂の作品。 (東京湾観音の原作者) バットを右手に、左手にボールを持った「ホームラン地蔵」 王貞治選手が新人のころ、心臓病の少年に「ホームラン王」になると誓ったが、その少年は14歳で亡くなってしまった。王選手は記録達成ごとにその少年の墓に参った。 「①品川宿」にもどる 「④品川寺」につづく |
500年も前に創建された海徳寺にホームラン地蔵が鎮座していると云うのは、何となくアンバランスな面白味があります。
心臓病で亡くなった少年はこのお地蔵さんを通じて野球を観ているのでしょうね。
>拙宅は浄土宗ですが、法然上人が円光大師と呼ばれていたとは、知らなかったです。そのうえ、そのような諡号を七つももっていました。
法然上人はたくさんの諡号をもらっていたのですね。
>古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至る。
由緒ある そして歴史の神社ですね
朝から お勉強させていただきましたが
「品川の竜神さま」とは・・少し解説してください
すみません
集中して心霊スポットになるのでしょうか。
京の雅な方が贈った宝鏡寺とは違う趣です。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/76ceaafe75d2406fd73ec3cd832c4764
少年の母親が、王選手にサインを願ったところ、サインだけでなく少年の病室まで行き 励ましの言葉をかけたそうです。
少年が13歳で短い生涯を終えた1962年に、王選手は初のホームラン王になったのだそうです。あの片足打法で・・・。
その少年が葬られたのが、500年の歴史を刻んだ海徳寺でした。
荏原神社は、和銅2年(709)9月9日に奈良丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請し創建されましたから、品川の竜神さまとして
信仰されたようです。
そのうえ、御神面の須佐男之神が水神様でもあり、「かっぱ」が水神様の使いであることから荏原天王祭として海中渡御している
ようです。
荏原では 荒ぶるスサノオ カッパとす / iina川柳
以前歩いた時は、旅行社のガイドについて歩いたので、
省略したのでしょうね。
全く知らないところです。
有り難うございました。
富山では、奇祭「つくりもんまつり」があります。
秋に実ったお供え物を、お地蔵さんに飾り付けたお祭りでしたが、案山子もありました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/9d9e61305d78eaef3d57ee34ec47d37c
北品川の入口で案内を50円で買って、それを見ながらまわりました。
徳川以外のも、上杉などの信仰も受けていたのは知りませんでした。
たまたま、明日に八王子に行きます。とはいえど、町田の飛び地になった場所ですから、通過する程度になります。
それでも、八王子にはご縁があるらしく9月19日に駅前に出没していました。そのコンサートは、未投稿でしたから、
7日にアップいたします。
明日の目的は、「観月の夕べ」というお寺の行事に参ります。
荏原神社に賑わいはまったく感じられませんでしたが、かっぱ祭のときは大変な人出になるようです。