カテゴリー「歴史」記事の中から、これはと思うものをピックアップ。 . . . 本文を読む
ラインで友に伊豆旅行の写真を送ったところ、江川太郎左衛門像を見て、実は叔母が江川家に嫁いだから、遠い親戚という返信が届いた。
タイムリーにも、タモリの「ブラタモリ」が鎌倉を旅直後の2日、10日に2週にわたって放送した。
旅した韮山は、蛭が小島に流された鎌倉幕府を開いた源頼朝の史跡があるので放送を興味深く見た。
2週目に、元寇襲来を国家危機ととらえて、北条家が行った鎌倉の極楽寺に宗教拠点を集中させ . . . 本文を読む
カテゴリー「歴史」記事の中から、これはと思うものをピックアップしました。
[ この国のかたち ]
[ この国のかたち「なこそ惜しけれ」]
[ 日本が一日遅れる ]
[ おいらん ]
[ 名こそ惜しけれ ]
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[ 忠臣蔵 ]
~罪深いひと~
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[ 吉良邸 ]
[ 鉄は樹木から ]
[ 樹木と人 ]
[ 稲 . . . 本文を読む
ギリシャ神話で最高神ゼウスは、ティタン神族のプロメテウスに命じ、自分と同じ形をした生き物を創らせ「人間」とした。
ゼウスはプロメテウスに、人間に生きるための色々な知恵を授けるよう命じたが、天地創造の力も持つ火「神の火焔(かえん)」だけは渡さないよう禁じた。
しかし、人間と接しているうちに、人間を愛するようになっていたプロメテウスはその禁を破って人間に火を渡してしまう。
怒ったゼウスは、プロメテウ . . . 本文を読む
分倍河原(ぶばいがわら)駅前の新田義貞像
隠岐島から脱出した後醍醐天皇は、新田義貞に倒幕の命を下す。
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は新田荘(現・群馬県太田市新田市)で鎌倉幕府打倒の兵を150騎ばかりで挙げた。鎌倉幕府軍を打ち破りながら南下。
5月15日、新田軍1万は府中の分倍河原の幕府軍への総攻撃を開始。
だが15万の幕府軍に迎撃され全滅状態になり、幕府軍の横腹を突 . . . 本文を読む
義経が兄頼朝に宛てた書状『腰越状』に地名をとどめる「腰越こしごえ」のいわれが次のとおり。
●江ノ島縁起(1047年)
深沢地区にある湖に5つの頭を持つ悪竜がが住んでいて、村里に出ては子供を喰らうため、村人たちが泣く泣く住み慣れた土地を離れて他に移ったことにより、このあたりを「子死越」「子死恋」の字を充てるようになったのが、いつしか「腰越」に転訛したと記す。
●風土記稿(1804-1829年)
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海舟は西郷への江戸城無血開城の書状と、江戸で捕縛していた薩摩藩士の益満休之介を護衛として鉄舟に付けて送り出した。
その勝海舟が、山岡鉄舟口述『武士道』の一節「海舟評論」に寄稿した時の鉄舟の死に際を触れている。
山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治21年7月19日のこととて、非常に暑かった。(享年53歳)
当日正午前、おれが山岡の玄関まで行くと、息子が「いま死ぬるというております」と答 . . . 本文を読む
常々、江戸城無血開城までの徳川慶喜の不甲斐なさに失望していた。評価には、「臆病者の逆賊」と真逆な「家康以来の英邁」の見方がある。
福沢諭吉が自書「痩我慢の説」に、無血開城を威勢よく批評している。
徳川家の末路に、日本の経済に於いて一時の利益を成したりと雖も、数百千年養い得たる我日本武士の気風を傷うたるの不利は決して少々ならず。
例え多勢にして強敵であろうと、国を立てるために痩せ我慢を張り倒し、断 . . . 本文を読む
戦国一の傾奇者かぶきもの 前田慶次郎
「婆佐羅ばさらと号して、専ら過差かさを好み、綾羅錦繍りょうらきんしゅう・精好せいごう銀剣・風流服飾、目を驚かさざるなし、頗る物狂すこぶ ぶっきょう 」といわれた。
婆沙羅の慶次郎は前田家の長男に養子入りし前田家を継ぐ筈だったが、信長が弟の利家に家督を継がせたため、当主になれなかった不運の漢でもあった。
前田家を出奔するのに、叔父にあたる前田利家を水風呂に馳走 . . . 本文を読む
の大親分 浅草弾左衛門の済み記事を次にまとめた。
「人外の人-1」
「人外の人-2」
「人外の人-3」
「囲内」
「弾左衛門の行列」
「浅草弾左衛門と葵の紋」
2007年03月26日
2007年03月27日
2007年04月17日
2007年03月28日
2007年04月19日
2006年05月13日
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浅草に、首斬り浅右衛門との親分・弾左衛門がいた。
処刑者を「様(ためし)斬り」した死体の肝を引き受け専売したのがの親分浅草弾左衛門。
前にした二人を次に置いたので、興味あるかたはおすすみください。
【 首斬り浅右衛門 】 【 弾左衛門と葵の紋 】
【 首斬り地蔵 】
GO TO トラベル利用のため18日まで留守しますから、その間は前の記事をご案内します。
コメントには、帰り次第 . . . 本文を読む
松平春獄(まつだいら しゅんがく)
文政11(1828 )年9月2日 – 明治23(1890)年6月2日
第16代越前福井藩主。明治時代は政治家としても活動した。
諱は慶永(よしなが)。春獄は号。田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男として生まれる。
天保9年に第15代藩主・松平斉善の養子となる。斉善が死去すると11歳で16代藩主となった。
越前を捨てて京都に出兵し朝廷・幕府どちらにもつかず(日本を . . . 本文を読む
幕末期に活躍した次の四大名を「幕末の四賢侯(しけんこう)」と呼ぶ。幕末の小説によく登場するも よく知らない。
その四賢侯を軸に司馬遼太郎が「酔って候」の短編集に採り上げていた。
史籍をよみ、歌を詠んだ教養人でありながら、酔態をさらして“狼候ろうこう"といわれた十五代土佐藩主・山内容堂。佐幕と勤王に揺れる血気盛んな生き様を描いた「酔って候」。議論を酒のツマミにしたかのようと形容。
薩摩藩主・島津斉 . . . 本文を読む
師走は忠臣蔵で、吉良邸への討ち入りは、きょう12月14日。
*1 *2
江戸時代、仇討ち処置を定める式目が「徳川成憲百箇条」にある。
これは、「長曾我部元親式目」慶長2(1597)年の仇討条項を参考にしたもので、次のように定めた。
「敵討の事。親の敵を子、兄の敵を弟打ち申すべし。弟の敵を兄が打つは逆なり。叔甥の敵打事は無用となすべき事」
分かりやすく書くと「殺された者の子葉が敵 . . . 本文を読む