黄梅 . . . 本文を読む
PM2.5が富士山を覆い、真っ黒に!
黒雲漂う富士を見て、さいきんの日本は不遇が続くなぁと頭をかすめたが、・・・
・・・ そんなわけではなく、綾瀬市の工場で大規模な火事が発生。プラスチックなどが含まれているのか、煙は真っ黒。
きのうは、冷たい風が強く吹いていたから江の島に度々出向いていると、こんなことも起きる。そのほかは、平和そのもの。 . . . 本文を読む
城山からの富士山
富士の景勝地、小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)として知られ、古くは”余呂伎”、”余綾”と書き”よろぎ”と読んでいた。
平安時代末期、相模国(現在の神奈川県)を治める役所である「国府」が余綾(よるぎ)郡(現在の大磯町、二宮町、および平塚市の一部)にあったといわれ、温暖で景色絶佳な大磯は、相模国の経済や文化の中心だった。
万葉・古今・新古今などの歌にも多く詠まれて、明治期以降は歴代首 . . . 本文を読む
はじめに 魚偏に京で「鯨」(くじら)、魚偏に弱いは「鰯=いわし」。東で「鰊」(にしん)ですネ。
それでは、玉偏に客とつづって何と読む? 玉偏に主では何と読む?
答は、 ビジター と メンバーでした。
誉ならオナーですヨ。衆ではパブリック。
玉偏に飛(ドラコン)では心(プレッシャー)から力んで空(カラブリ)しないどくれ。あいにく、白外(オービー)や無( . . . 本文を読む
吉田茂銅像の立つ位置から富士山、伊豆半島、相模湾などが一望できる。
吉田邸跡は、明治17年に吉田茂の養父健三が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和19年頃からその生涯を閉じる昭和42年までを過ごした邸宅。 政界引退後も多くの政治家が「大磯参り」した。
檜皮葺き屋根の兜門
手前の石群は鯉の滝登りを表す
心字池を邸宅の正面に配置した、池泉廻遊式の庭園
←七賢堂
岩倉具視・大久保利通・三条 . . . 本文を読む
興福寺の前身は飛鳥時代に藤原鎌足が、大化改新の成就を祈願して造った釈迦三尊像を安置する寺を創建しようとしたことに始まる。
興福寺は藤原氏や皇室の手で次々に堂塔が建立された。初めに藤原鎌足の子・不比等が金堂(中金堂)を建立して鎌足が造った釈迦三尊像を安置した。続いて聖武天皇が東金堂(国宝)、五重塔(国宝)、光明皇后が西金堂を建立した。その後も北円堂(国宝)、南円堂(国・重文)、西金堂、三重塔(国宝) . . . 本文を読む
新宿副都心方面
↓渋谷ヒカリエ 再開発後の近未来渋谷駅界隈
富士山もこのように見えた
11Fのフロア(イタリアレストラン、コンビニ店)
5Fから階下を見下ろす
上は、
渋谷ヒカリエ内から撮る。
駅前には、
忠犬ハチ公。
(初登板)
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中西智子(Bass)・宙也(Vocal)・荒木康弘(Drums)・内藤幸也(Guitar)
NHKで聴いたアレルギーのライブは、とてつもなくパンクな歌。耳につんざく大音量な曲ばかりで重低音が腹に響く。Vocalの宙也が歌いまくり、Bassの中西智子の爪弾きはハイテクニック。
演者ALLERGY(アレルギー)については、よく知らないのでWEBから解説を拾うと、日本のロックバンド。
1981~8 . . . 本文を読む
山の辺の道やまのべのみち周辺に、柳本古墳群と呼ばれ数多くの古墳が点在している。
そのひとつ景行けいこう天皇陵は、渋谷向山古墳とか山辺道上陵とも呼ばれる全長約300m、後円部幅約168m、前方部幅約170mの全国最大規模の前方後円墳のひとつで、丘陵の先端を利用して3段に構築されている。付近には陪塚と見られる上山、松明山、丸山と呼ばれる古墳もある。
天皇の皇子の日本武尊は、記紀に記載されている多くの . . . 本文を読む
1914年~1941年まで、カナダのバンクーバーに実在した日系カナダ移民の野球チーム「バンクーバーの朝日軍」を題材にしている。
西海岸でリーグ制覇を遂げたが、1941年太平洋戦争の勃発で敵性外国人として強制収容所に入れられ、チームは解散。
2003年にカナダ野球殿堂入りしたが、チームに所属していたほとんどの人は既に亡くなっていた。
監督は、「理不尽な状況の中でもがく姿を撮りたかった」というが、 . . . 本文を読む
テレビ15秒
「水、持ってって そやけど、ナマで飲まんといてな。ポンポン こわすよってに……」
阪神淡路大震災の時に繰り返し流れた公共広告機構の支援CM。
震災直後の被災地に、まだ所々から煙が立ちのぼる中、水が出る井戸を開放しながらも、生では飲めないことも添えて気配りする15秒ほどのCMだった。
この公共広告の「阪神大震災・井戸水編」CMは、全日本CM放送連盟で95年度のグランプリ・郵政大臣賞 . . . 本文を読む
吾妻山公園の展望台下にある吾妻あずま神社には、次の話が伝わる。
日本武尊が東征の途中、三浦半島走水から上総に渡ろうとすると暴風が起こり、妻の弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)が海神の怒りを鎮めようと海に身を投じると海はたちまち穏やかになった。
7日後に命(ミコト)の櫛が海辺に流れつき、それを埋めて偲んだ場所が吾妻神社であった。
万葉集には、次のように詠まれている。
『相模道(さがむぢ)の . . . 本文を読む