”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(111)

2006年09月12日 22時07分28秒 | ビジネス

9月12日(火)曇のち雨
今日は秋篠宮殿下のお子様の名前が決まったようです。悠仁と書いて”ひさひと”と読むようですね。名前の通り、悠然とした心の広いそして仁のある人に育ってほしいものですね。

ところで「大学」を読むもだんだん終わりに近づいてきました。今日は伝四章からです。

(伝四章)
子曰く、訴えを聴くは吾猶人のごときなり。必ずや訴えなからしめんとかと。情なき者はその辞を尽くすことを得ず。大いに民志を畏れしむ。これを本を知ると言う。
右伝の四章。本末を釈す。

(解釈)
孔子いわく、訴えがある時にこれを聴いて是非・正邪を裁くのは自分も常人も大差なく変わらない。自分は必ず民が礼に従い、法を守って、訴えることのないようにしようと思う。誠ない者が虚偽の言を述べることのないようにし、己から訴えることのないようにするには、上に立つ者の徳が明らかで民の心を畏服させ、訴える自分が恥ずかしいと思うようになるためである。すなわち上に立つ者の明徳が本で、その結果訴えがなくなることが末である。
右伝の四章で、「本末」の解釈である。

(伝五章)
これを本を知ると謂う。これを知の至りと謂う。
右伝の五章。蓋し格物致知の義を釈す。而して今亡ぶ。間(このこ)ろ嘗(こころ)みに窃(ひそ)かに程子の意を取ってもってこれを補って曰く、所謂知を致すは物に格るにありとは、・・
・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・
力を用いるの久しきに至って、一旦豁然として貫通すれば、則ち衆物の表裏精粗(ひょうりせいそ)到らざるなく、吾心の全体大用明らかならざるなし。これを物格と謂う。これを知の至りと謂う。

(解釈)
これを本を知ると謂う。これを知の至りと謂う。右は伝の五章の格物致知の意味を解釈したものであったが、今はなくなってしまったものと思われる。そこで程子の意見を取って朱子が補ってみた。その文に曰く、・・・「いわゆる知を推し極めて、
残すところなくしたいと欲するならば、自分の周りの事物についてその道理を窮め尽くす事である。知があるということは当然道理があると言うことであるが、天下の事物には、いまだ極め尽くされていないものもあるので知も尽くされているとはいえない。「大学」の人に教える最初は、必ず学者が天下の事物について、既に分かっている理をさらに深く探求して、極め尽くすことを求めるのである。」・・・「」内は中略部分の解釈
この方法によってずっと継続すれば、次第に熟達してついには豁然として心眼が開け、あまたの事物の表裏・精粗がわかるようになるのである。そして万事に応じる大用を明らかにすることができるのである。この表裏・精粗がわかり心眼が開けることを格物と言うのであり、万事に応じる大用を明らかになることを知の至りと謂うのである。

だんだん解釈が読みやすくなってきたように感じませんか?最初は忠実に解釈しようとして日本語にならない感じでしたが、意味を自分なりに考え自分の言葉で表現してます。従って読みやすいかもしれませんが独断的なところもありそうです。まだまだ自分が至らない証拠かもしれません。
今日はここまでにして下さい。終わりまでと思ったけど読んで解釈するのにやっぱり時間がかかります。今日はまだ早いかもです。では又明日。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする