”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(112)

2006年09月13日 21時33分56秒 | ビジネス

9月13日(水)雨
秋の長雨シーズンになったんでしょうか?雨が降ると自転車に乗れないので、地下鉄の駅まで歩くのですが行きも帰りも歩くのが続きそうでいやになってしまいます。週末の連休も天気は厳しそうでクルージングはどうなることやら。でも佐久島の民宿は予約してあるので晴れてほしいものです。
ところで今日は「大学」の伝六章を読みましょう。小人閑居して不善を為す・・・と出てくるところですよ。

(伝六章)
所謂(いわゆる)その意を誠にすとは、自ら欺く母(な)きなり。悪臭を悪(にく)むがごとく、好色を好むがごとし。これを自ら謙(こころよ)くすと謂う。故に君子は必ずその独りを慎むなり。
小人閑居して不全を為す。至らざる所なし。君子を見て后(のち)厭然(えんぜん)として、その不善を揜(おお)いてその善を著す。人の己を視ること、その肺肝(はいかん)を見るがごとく然(しか)り。則ち何の益かあらん。これを中(うち)に誠あれば外(ほか)に形(あらわ)るという。故に君子は必ずその独りを慎むなり。

曾子曰く、十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるか。富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広く体胖(ゆた)かなりと。故に君子は必ずその意を誠にす。
右伝の六章、誠意を釈す。

(解釈)
「意を誠す」というのは、自らがその本心に欺くこと(=善だとわかっていてもできなかったり、悪だとわかっていても受け容れてしまうこと)がないと言うことである。悪臭をにくむがごとく悪をにくめば二度と悪にそまることはないし、好色を好むがごとく善を好めば必ず善を為すようになるのである。このようになれば自らが十分に満足でき、心は晴々と心地よいものである。従って君子たる者は、他人が見ていないところであっても慎むのである。
不徳の小人は、暇をもてあまし一人にしておくと、人目をはばかることがないと思い不善を為してしまうものである。これは慎むということを知らず、甘んじて自らを欺くからである。しかし小人と言えども、善を為し悪を去らねばならないことを知っているので、ひとたび君子をみれば、にわかに驚き恐れて、いやいやながらその不善を覆い隠して表には善をあらわそうととします。しかしながら、心の中の悪はまなこや容貌や起居動作に現れて、とうてい覆い隠すことはできないのである。他人が自分を見ることはさながら肺肝を見るがごとく、ただちにその真相を看破してしまうものであるから、隠そうとすることは何の益もないのである。これを心の中の真相はおのずから外貌に現れるといいます。それ故君子たる者は深く戒めて必ず独りを慎むのである。
(自らを欺くことの益なきを述べて独り慎むを説いたものである。)

曾子が補足して言うことには、十人の目が共にみるところ或いは十人の手が指すところでは、厳密であって、決して自らの欺きを覆い隠すことはできないものである。富貴であれば、その家屋はおのずと美しくなるように、徳が備わっていればその身は自ずから潤い美しくなるものである。仰いで天に恥じず、俯しては地に恥じないがために、心も自ずから広く、体もゆたかにのんびりできるのである。それ故君子たる者はその意を誠にするのである。
右は伝の六章、誠意を解釈したものである。

我々が現在も良く使う”小人閑居して不善を為す”の原典はここにあったのですかね。いろいろ読んでいくうちに僕らが日常よく使うフレーズが部分的に良く出てくるのが、ほっとしていいですね。あまり長くなってもですから今日はここまでにします。あと正心・修身・斉家ですね。それ以降の治国・平天下は政治的になりすぎてしまうので超簡単にします。それでは又。

コメント
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