”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(113)

2006年09月14日 22時43分42秒 | ビジネス

9月14日(木)曇時々晴
天気予報も日々新たです。昨日雨マークの連続が今朝の新聞では今日明日は晴そうです。でも週末はやはり雨でどうしても雨が降りたそうですそうです。クルージングは断念となると暇つぶしにパチンコとなってまた出費を覚悟ですね。
それでは今日の「大学」を読むは伝七章と伝八章です。

(伝七章)
所謂身を修むるはその心を正すにありとは、身に忿懥(ふんち)する所あれば、則ちその正を得ず。恐懼(きょうく)する所あれば、則ちその正を得ず。好楽(こうぎょう)する所あれば、則ちその正を得ず。憂患する所あれば、則ち正を得ず。心焉(こころここ)に在らざれば、視れども、見えず、聴けども、聞こえず、食えどもその味わいを知らず。これを身を修むるは、その心を正すに在りと謂う。
右伝の七章。心を正しくし身を修むるを釈す。

(解釈)
身を修めるはその心を正すとは、もし心に怒りの情があれば正しい判断はできない。また恐れの情があれば同じように正しい判断ができない。好楽の情があればやはり好楽におぼれて正しい判断ができない。憂いや患う情があれば心は苦しみやはり正しい判断はできない。この忿懥(ふんち)・恐懼(きょうく)・好楽・憂患といった感情は人間誰しも免れることのできない感情であるが、事物に接する時このことをよく察して、適度を失わないようにしなければならない。もし何かに心をうばわれていると物を視ても見えないし、聴いても聞こえないし、食べても味わうことができないものである。それ故心を正しくしてその身を修めなければならない。そこで経文には身を修めるには心を正しくすることであると言うのである。
右伝の七章。心を正しくし身を修めるの解釈である。


(伝八章)
所謂その家を斉うるは、その身を修むるに在りとは、人その親愛する所に之(ゆ)いて辟(へき)す。その賤悪(せんお)する所に之いて辟す。その畏敬する所に之いて辟す。その哀矜(あいぎょう)する所に之いて辟す。その敖惰(ごうだ)する所に之いて辟す。故に好みてその悪を知り、悪(にく)みてその美を知る者は天下に鮮(すく)なし。故に諺にこれ有り、曰く、人その子の悪を知るなく、その苗の碩(おお)いなるを知る莫(な)しと。これを身修まざればもってその家を斉う可からずと謂う。
右伝の八章。身を修め家を斉うることを釈す。

(解釈)
家を斉(ととの)うるはその身を修むるにありとは、およそ人間は好き嫌いの感情にまかせて偏った判断をしがちであるが、身を修め正しい判断によって一族・一家が成立つのである。親愛するものに対すれば愛におぼれてしまう。賤しみ憎むものに対しては忌み嫌ってしまう。偉い人には
畏敬の念はもつが近寄りがたくなる。困苦の人にはかわいそうと言って恩を施してしまう。に対しては驕り高ぶる態度になる。これらはみんな正しさを失って偏った考えである。したがって、好きな人の悪い点を知り嫌いな人のよい点を知る人は天下に稀である。それ故昔のことわざにも人はその子の愛に溺れて、その悪を知る者はいない。人は目先の得ることをむさぼって、植える苗が大いに繁茂することを知らない。このように好悪に心が偏れば身は修まらず、その家をととのえることなどどうしてできようか。経文に家斉うるはその身を修むるに在りと言うのは、その身が修まらなければ家をととのえることができないからである。
右は伝の八章で身を修め家を斉うることを解釈したものである。

あと一日で終わりとなるところまでやっときました。正直もう少し時間をかけて解釈の文章を推敲すべきだと思いながらここまできてしまいました。従ってかなり読みづらいと思います。よくお付き合いいただきました。ありがとうございます。あすはかなり途中を飛ばしながらになります。
それではまたあした。