12月18日(金)晴
今日はこの冬一番の寒さでしたね。明日はもっと寒くなるようです。名古屋では明日は雪の予報です。子供の頃は雪が降り出すと、青竹を取りに行き、竹を割って2mほどの青竹の節をけずり、50cmぐらいの所を火であぶりながら曲げてから足巾ほどの板に打ちつけて竹スキーを作ったものでした。ちょうど出来上がるころには数cmぐらい積もって、丘の上からすべって遊んだものです。
現代のように何でも買える時代では、自分の遊び道具を自分で作ることがほとんどなくなってしまいましたが、我々の子供の頃は竹スキーだけでなく、下駄スケートやら竹馬やら竹トンボ等々見よう見まねで作ったものです。そのため男の子はたいてい小刀をポケットに入れていました。でも不思議と人を刺したり切りつけたりすることはまったくありませんでした。今は人を傷つけるような話ばかりですが、一体どうしてそんなになってしまったのでしょうか?
それはさておき、今日はいつもの船の話に戻しましょう。
3月頃になると毎年、企業の社員が賃上げ要求で「ストライキ」を打ちますがこのストライキと言う言葉の由来を御存知でしょうか?
18世紀のまだ帆船の時代にイギリスの港で船員たちが船会社に対する不平不満が爆発してある事件を起こしました。船員たちは港内の船の帆桁(ほげた)を引き降ろして、出港を妨げたのです。帆桁を引き降ろすことを Strike their Yards と言います。このことから業務につかずに仕事を妨げる行為を「ストライキ」と言うようになったのだそうです。
ちなみに、同じような言葉に「サボタージュ」や「ボイコット」と言う言葉もありますがこれらも同様な事件からできた言葉です。「サボタージュ」はフランスの木靴職人が工場に木靴(Sabo)を投げ込んで生産を妨害したことからできた言葉でです。我々も意図的に能率を落す行為を「サボル」と良く言います。また「ボイコット」はアイルランドの土地管理者だったボイコット大尉に対する小作人の抗議行動に端を発した事件に由来して使われるようになったそうです。
まぁ新しい言葉と言うのは人の名前や行動に端を発して、いつの間にかその行為そのものを言うようになるようです。
それでは今日もこの辺でお開きです。
12月17日(木)晴
12月に入って海に出ることも無く、月曜から金曜まで机に向っていたせいか、少々疲れ気味です。と言っても忙しいと言うほどでもありませんが考え事が多くなっています。ヨットやゴルフをしている時は一日何も考えずにひたすら遊びに集中していることが、すごい気分転換になっていることを改めて認識しています。僕は読書も好きなので毎朝早朝に職場に行き30分以上は本を読んでいます。通勤時間もほとんど読んでいるのでほぼ1週間に1冊のペースで読んでいますが、時々何のために読んでいるのかわからなくなることがあります。別に何の役に立つ訳でもなく暇をつぶしているだけかもしれません。特に自分のこれまでの考え方を180度変えるような本を読んでいる時は特に感じています。
現在読んでいる「日本史の誕生」ちくま文庫は今迄学校で学んできた常識をいくつかの点で疑わざるを得ない内容です。「日本」と言う国や「天皇」と言う言葉は38代目の天智天皇以来であり、日本書紀は39代の天武天皇が編纂し始めて40年近くかかって出来上がった日本で最初の歴史書であること。大和王朝は16代の仁徳天皇からが実在していてそれ以前はすべて創作であったこと。これらは中国の歴史書から類推していくと納得することばかりです。伊勢神宮や天照大神の伝説も天武天皇の時代の創作だそうです。また日本最古の書物の一つ古事記にいたっては平安時代初期の書物であるようです。
従って日本国は天智天皇が大津京で即位した668年から始まったことになります。それ以前の大和朝廷は倭国の中の一つの都市国家で仁徳天皇が勢力を持ったころからの話です。ではそれ以前はと言うと卑弥呼が出て来るわけですけどどうも魏志倭人伝は中国の歴史事情からかなり誇張して書かれているようで何十とある都市国家の一つで貿易の代表にすぎなかったようです。場所も魏志倭人伝に書かれている順番から類推すると瀬戸内海、山陽道の中間ぐらい(広島?)にあたるそうです。当時の倭国は中国との交易の場所がそれぞれ都市国家であり、倭人の世話役が王だったようです。その中には中国人だけの都市国家もあったそうです。
このように考えてくると弥生人の華僑説はすごく信憑性があって、縄文人が弥生人と渾然一体となって日本人が出来上がったと言うのがどうも真実のような気がします。
ちょっと話が飛躍しますが、秦のの始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その頃から中国との交易がさかんになったと考えると妙に弥生文化の起こった時代とマッチしています。それに秦の始皇帝が不老不死の妙薬を求めて、部下に童男・童女100人を連れて旅立たせた故事を思い起こすとひょっとして彼らが倭国に来たのではないかと思ってしまいます。
以前縄文人は沖縄や南西諸島から来たことを話したことがありますが、弥生人は朝鮮半島から来たと思われましたが、どうして騎馬民族でなく稲作民族だったかが、もう一つよくわからなかったけれども、中国の都、洛陽からの交易ルートや始皇帝の郡県制度を朝鮮半島にも作ったことから考えればかなり納得できます。中国では皇帝が変わる度に大きな戦争が起こり大勢の人が死んだとされていますが、中には戦争を避けて遠い倭人の国まで逃げ延びた人達が大勢いたような気がします。
日本の古代を考えると、何か複雑な気分になりますが、弥生時代と言うのは中国との交易を中心とした文化だったと自分は確信しています。
今日はちょっと頭をもやもやさせる話をしたので船の話は止めておきます。
今日も相変わらず船の話をします。
船が航海する時には、海の地図である海図が必要ですが、海図は1967年の条約でその表記方法が世界共通になりました。そして条約に加盟している国々がそれぞれ周辺の海域の海図を作成しています。従って表記方法は同じですが言葉がそれぞれの国になっています。それでは全世界の海図を発行している国はどこでしょうか?
多分なんとなく想像がつくと思いますが答えは想像通りのイギリスです。イギリスではそれぞれの国が作成した海図を翻訳して全世界の海図を作成しています。さすがに7つの海を制覇したことのある国らしいですね。僕の船には日本語版の伊勢湾周辺の海図が3枚あるだけですが、海図を見ているといろいろおもしろいことがわかります。一つ紹介すると、灯台の灯りは区別がつくようにすべて異なっています。海図の灯台のマークの下に点滅の周期が記されていて、灯りを見ればどこの灯台かわかるようになっているのです。もっとも最近では灯台もその役割をGPSに奪われてしまっているようです。「おいら岬の、燈台守の・・・・」と言う歌がありましたが今ではその苦労はわからないかもしれませんね。
さてところで海図の中には水深が書かれていますが一つやっかいな問題があります。満潮と干潮で水深が変わってしまいます。船にとって座礁ほど恐いものはありませんから水深は、海図の中でも非常に重要な情報です。そこで海図に書かれた水深は干潮時の深さを示すことになっています。そうでなければ困ってしまいます。満潮時でも干潮時でもいつでも安全に航行するために最悪の干潮時でも「水深は○○ありますよ」と言う意味になります。
それでは海図に書かれた山の高さはどこからの高さなのでしょうか?山の高さは一般の地図と同じです。海面からの高さですよね。でも海面は満潮と干潮では異なるのでどうしているのでしょうか?
実は山の高さは満潮時と干潮時の平均をとった海面からの高さを表しています。ですから海底からの高さは水深+山の高さより必ず高くなっているのです。
つまらない話でしたね。もう少しおもしろそうなネタを考えておくことにしましょう。
それではまた。
もう今年もあと2週間となりました。早いものです。この暮は28日が月曜日、来年の1月4日が月曜日なので休日がうまく入らない最短の正月休みになってしまいます。30日に田舎に車で帰る予定ですが、帰りを今から心配しています。来年はUターン日が1月2日か3日に集中してしまうので多分最悪の帰りになりそうです。まぁ今から心配していてもどうにもならない話ですが、年齢と共に長距離運転がおっくうです。早く第二東名高速ができてラッシュの緩和をしてもらえると楽なのですがいつになったらできることやら。
ところで今日の船の話は、車の話がでたついでに通行方法について書きましょう。
日本では車は左側通行ですよね。しかしアメリカやドイツでは車は右側通行です。このように道路の通行は国によって異なります。それでは船の場合はどうでしょうか?
はい、みなさんの想像通り船は世界中共通のルールで通行することが決められています。ではどちら側を通行するのでしょうか?
船の場合はすべて右側通行です。と言っても中央分離帯がある訳では無いので船がすれ違う時に進行方向右側を通行することが義務付けられています。そしてぶつかりそうになったら右舷側に舵を切ることになっています。これを間違えると大変なことになってしまいます。海上衝突予防法と言う法律で定められています。国際的には世界の国が条約を結んでいるわけです。
ちなみに航路標識はどうでしょうか?航路標識と言うのは、港に入る航路の両側にあって、航路の右端と左端を示す標識です。日本では港に入港する時、港の奥に向って左側に緑色の標識、右側に赤色の標識となっています。港に行って沖の方を見ると必ず赤と緑の標識がありますから一度視て確かめてください。ただし港から沖を見るときは右が緑で左が赤になりますね。
ところでこの側面標識は残念ながら世界共通ではありません。日本やアメリカ、カナダ、韓国、ブラジルは同じですが、イギリス、フランス、オーストラリア、インドは逆ですから要注意です。
船のルールも大きな事故があってルールが統一されてきたのですがまだまだすべてが同じと言うわけでもないのです。
そう言えばタイタニックの事故も操舵号令の違いから氷山に激突した事故でした。ハード ア スターボードと号令したのに左に転舵してしまいました。スターボードは右舷のことなので右舷に転舵するのが今では世界共通ですが、それはこの事故が起こったあと決められたことでした。当時、スターボードと言った時、船首を右に向けることを言う国と舵を右に向けることを言う国とあったわけです。タイタニックはイギリスの船でしたので舵を右に向けたのですが、操舵号令を出したのはフランス人だったので船首を右に向ける意味だったわけです。
失敗は成功の元とは良く言ったものですが、そのために多くの犠牲者が出てしまったのは残念なことです。現在のようなグローバルな社会では世界共通のルールはどうしても必要なことですが、利権がからんでくるとなかなか前進できないものです。地球温暖化対策もなかなか世界中の足並みが揃いませんが、早く足並みを揃えて、自然豊かな地球を守っていきたいものです。
それではまた。
今日は新幹線と東名高速バスを乗り継いで静岡の田舎に行ってきました。暮に帰省するのは30日になるので、今年も自分で打つ予定のそば粉を購入したり、母親の様子を見たりのつもりで暇にまかせて行きました。ところが一昨年購入した中古の軽自動車のエンジンがかからず、まったく役に立ちませんでした。最近は自分の車で往復するのが疲れるので、新幹線や高速バスで帰って足回りに利用する目的で買ったのですが、バッテリーがあがってダメだったり、今回のようにエンジンをかけるとカラカラ音がするだけでダメだったりで結局何の役にも立っていません。
やっぱり道具は日常的に使っていないとダメだと言うことがよくわかりました。弟が時々乗って様子を見る事になっていたのですが、どうも言った時だけで、ずっと来てなかったようです。まぁ人はあまりあてにならないと言うことかもしれません。
さて今日の船の話は長崎ペーロンと那覇ハーリーについてです。どちらも中国で始まった竜船競漕を起源としますが、長い年月の間にそれぞれの文化と伝統の中でいろいろな違いが出て現在に至っています。それではどのように違うのか御存知ですか?
多分TVなどで大勢の人が船に乗ってオールを漕いで競走している映像をご覧になったことがあると思います。竜船競漕の起源は古代中国の春秋時代の楚の名宰相だった屈原が謀略に遭って失脚し、国を憂えて川に身を投げたこと対し、民衆は船を出して、ドラや太鼓を打ち鳴らし魚を追い払い屈原の亡骸を守ったと言う故事にあります。その後毎年慰霊のため竜船競漕が行われるようになったそうです。それが日本に伝わってお祭りにドラや太鼓を打ち鳴らして大勢の人達が船を漕いで競走するようになったのがペーロンであり、ハーリーです。ただ長崎ペーロンは海を鎮める為に行われた行事ですし、沖縄ハーリーは海の安全を祈願して行われる行事で日本での始まりは若干違っているようです。どちらもすごい波しぶきをあげてまるで白い龍が進むようなので竜船と言うのだと思います。
ところが両者は船の長さ、漕ぐ人数、出艇する船の数、競走する距離がすべて異なります。船の長さはペーロン13.6m、ハーリー14.5mでハーリーの方が長い船を使います。従って漕ぎ手もペーロンは26人以内(乗員は30人以内)に対しハーリーは32人(乗員は42人)です。競走する船の数はペーロンが6艇ぐらいなのに対してハーリーは必ず3艇と決まっています。さらに走る距離はペーロンが往路630m、復路520mで1150m、ハーリーは往路350m、復路300mの650mで競います。
まぁ大した違いではありませんが所変われば品変わるですね。現地の人達にとってはその違いは大きいのですが僕たち観光客からみれば同じようなものかもしれません。
そう言えば僕たちが欧米人を見ればみんな同じように見えて区別がつきにくいけど、日本人同士を見る時は容姿の違いまではっきりわかることと同じですね。
専門家同士で議論すると細部ばかりに気を取られて本質を見失うことがよくあります。その点門外漢が一人加わるだけで議論と言うのは原点に容易に戻ることができます。そう言う意味でいろんな違った視点を持てる企業は強いような気がします。
はい今日はこれまでです。船の話もだんだんネタがなくなってきましたがもう少し頑張ってみます。
12月12日(土)晴
昨日3回目の忘年会が終って、残りはわずかになりました。まぁ一年無事に今年も過ぎたことを感謝しなければなりません。細かいことを言えば反省もいっぱいありますが何よりも健康であったことが一番です。
ところで今日は土曜日、朝からブログを書くのも僕にとってはめずらしいことです。今日の船の話はペリーはどうして日本に黒船でやってきたのでしょうかと言う話です。日本を植民地にしようと思えばできたはずなのに開国(外国の船が着ける港を作ること)を要求してきました。
話は変わりますが江戸時代には日本の近海にはたくさんの鯨がいたことは御存知でしたでしょうか。当時、対馬にはたくさんの鯨取りが集まっていたと言われています。ただ鯨は力が強くて、艪の船を漕いでモリを付いて取ることは大変な作業でした。ですからあまり取れなかった訳ですが、対馬の入り江に鯨を追い込んで網をかけて動けないようにしてモリを付くことを考え、日本でもたくさん取れるようになったのです。それでも沖を通る鯨は取れませんから、まだいっぱいいた訳です。鯨は肉は食べれるし、油は灯りに使えるしで余すことなく我々の先祖の役にたっていました。そこで漁師は鯨取りになる人がいっぱいいて日本の近海の鯨は激減していったのですが、それだけでなく、北氷洋からアリューシャン列島、カムチャッカ半島を下って日本近海に来る鯨はヨーロッパ人やアメリカ人のターゲットでもありました。彼等は足の速い蒸気船を持ち、モリを打ち込む漁法でたくさんの鯨を取るようになっていました。彼等は食糧としてではなく油を取るためだったのです。そしてアリューシャン列島から日本近海まで鯨を取るために長い航海をしていました。そうなると船の乗組員の飲む水や食糧を補給する必要がでてきます。そこでアメリカの漁民はアメリカ政府に頼んで日本に寄航できる港を開放するように迫ったわけです。
後日談ですが、日本も明治になって鯨を取るための船を作るようになったのですが、この頃は既に日本近海ではあまり取れなくなってしまっていました。鯨は哺乳類で子供はいっぱい産みませんから、乱獲によって北氷洋ではすでにいなくなっていたわけです。そこで日本人は南氷洋に出かけて鯨を取るようになったわけです。日本人は鯨の肉も食べるし、油も使うし、髭まで歯ブラシにするなど余すことなく使ってましたから現在でも鯨を取るので欧米人から批判されていますが、欧米人は油を取る目的でしたから、石油が出て来ると鯨は取らなくなって、手のひらを返したように自然保護を訴えるようになりました。身勝手と言えばほんとうに身勝手ですが北氷洋の鯨を絶滅の危機に追い込んだのは元々欧米人だったのです。まぁ日本人も生活のためとはいえ乱獲した事実は消えるわけではありません。まぐろなどの他の魚もそうですが欲張っていっぱい取ろうとするので海洋資源はどんどんなくなっていくのが現状です。もう少し節度ある資本主義が必要になっているのかもしれません。
今日の話は、ペリーが来航した目的は捕鯨のための寄港地を開拓することが目的の一つだったと言う話でした。ちなみに浦賀沖に現れた黒船は4隻でしたが、このうち2隻が蒸気船で残りの2隻は帆船でした。黒船と言うとみんな蒸気船と思われてしまいますが実際は2隻だったそうです。
日本人は魚を蛋白の補給源として古くから食べている民族ですが、もっと海のことを知って節度ある漁業をやっていかないと困りますよね。僕も魚は好きなのでいつまでも食べれるような工夫がもっと必要だと思います。それではこのへんで。
12月10日(木)晴後曇
本日2回目の忘年会終了。明日は3回目の忘年会なので一次会で先ほど帰宅しました。ふぐのヒレ酒で相当酔っ払っています。
今日は11月末にちょっとした手違いから約束していたベリーダンスの発表会に行けなくなってしまったお詫びのランチをさせていただきました。これでお許しいただけるか心配ですが、結構気張ったつもりですのでせっちゃん、みぽりんお許しください。でも本当はベリーダンスを見た方がよかったよっぽど良かったと思います。それでも大口屋のふまんじゅうをいただきました。なかなかおいしいまんじゅうですね。T西さんの千鳥まんじゅうが霞んでしまいました。ほんとうは大阪の千鳥まんじゅうも中々おいしいまんじゅうなのですが。
さて酔いも少し冷めたところで今日も船の話をひとつ。
船の左舷をポートと言いますがどうしてポート(港)と言うか御存知ですか。
船の右舷はスターボードと言います。また左舷はポートといいます。そして昔の船は右舷側に舵取り装置がついていたため、港の桟橋には必ず左舷側を着けていました。なぜかと言うと船の命である舵を壊したら大変なので舵取り装置の無い左舷側を港に着けていたのです。そこで左舷側を港側と言う意味でポートと言うようになりました。
ところで飛行場はエアポートと言います。以前飛行機には船の名称がいっぱい使われている話をしました。キャビン、コクピット、キャプテン、クルーなどの言葉です。エアポートも飛行機の港と言う意味でやっぱり船の言葉を使っているのです。さらにもっとおもしろいのは飛行機の乗客の乗降口はすべて左側にあるのです。これも古い船の伝統を引き継いでいるのです。飛行場で乗降口は右側でも左側でもいいはずなのにどこの国にいっても左側から乗るようになっていることを思い出してください。こんなところでも船の言葉は引き継がれています。
どうですか?おもしろいでしょう。まぁあまり船に興味のない方にはおもしろくもないかもしれません。それではまた気が向いた時に。
12月9日(水)晴後曇
昨日は1回目の忘年会でした。僕が月に1度行く栄の居酒屋はなぜか満員で予約がとれませんでしたので、伏見の居酒屋まで出かけ、時々集まっては飲んでいる6人で内輪の忘年会です。2時間ほど飲んでお開きで、そのあとはいつもの3人でスナックに行ってきました。最近僕はあまり飲めないので食べてばかりです。昨日はあまり気が進まなかったのですが、あそこはもうしばらくは遠慮しようと思ってます。今週は明日もあさっても連続で忘年会がありますが一次会で早々に引き揚げる予定です。今年は多分例年よりはかなり少なくなると思うので楽と言えば楽です。まぁさびしい話ですが仕事をしているから飲めるのであって、田舎に帰ったらまったく縁がなくなると思えば徐々に少なくなっていくのは理想的かもしれません。来週以降は2回約束があるだけなのでブログも休みは少なくなります。また見て下さいね。
ところで今日の船の話はブリッジです。ブリッジと言うと日本語では「船橋(せんきょう)」と訳していますが、操舵室のことを言います。それではどうしてブリッジ(橋)と言うのか御存知でしょうか?
帆船は舵と直結した舵輪が船尾にあるため、船尾の甲板で操船していますが、蒸気船の時代になると、船体の中央に機関室、両舷側には外輪があって、船尾の甲板で操船しようとすると見通しが悪くてとても操船できませんでした。そこで両舷の外輪の覆いを橋状の構造物でつなぎ、その上に操舵室を設けて操船するようになりました。そこで操舵室のことをブリッジと言うようになった訳です。
その後外輪はなくなり、スクリュープロペラ船になってしまいましたが、操舵室は今でもブリッジと呼んでいるのです。
時代とともに姿や形は変わっていきますが、その目的が同じものは呼称だけがそのまま残る典型的な例だと思います。このように姿・形は変わっても昔の名前をそのまま引き継いでいく例は他にもいっぱいありそうですね。
今日はこれまでです。それではまた。
よい天気でしたが、冷たい風が強くて寒い一日でした。自転車で帰宅する時の寒いこと、骨身に凍みる寒さでした。早速明日からコートを出してもらうことにしました。まだ冬も始まったばかりなのでコートのインナーははずして、もっと寒くなった時にも備えることにします。
そう言えば今日は二十四節気の大雪(たいせつ)です。雪が平地にも降り始め、南天の実が赤くなる時期です。こう言うと雪ウサギができそうです。もっとも現実はまだ雪が降るほどではありません。スキー場もまだのようです。でも風花はあったかもしれないくらい風は冷たかったですね。風花は風に舞ってくる雪のことを言います。大雪の二週間後は冬至です。この時期はいろいろ飲み会も多くなります。僕も今週は3回飲み会が予定されています。したがってこのブログも休みが多くなりそうです。火曜、木曜、金曜は忘年会が続きます。来週も数回あるのでなるべく一次会で切り上げるようにします。
さて今日も船の話を一つ。
みなさんは、「まとも」と言う言葉をよく使うと思います。たとえば「サッカーの試合で相手の蹴ったボールが顔面にまともに当たった」などと使いますよね。この「まとも」と言う言葉は船の用語に由来しているのは御存知でしたか?
船の用語で「艫(とも)」は船尾のことを言います。「真艫(まとも)」は船の真後ろの方向をさします。ですから帆船が真後ろから風を受けて走ることを「真艫走り(まともばしり)」と言います。ちなみに横から風を受けて走ることは「開き走り(ひらきばしり)」と言います。帆船にとっては風を真後ろから受けて走る追い風の時は船が一番早く走れる時です。したがって船にとっては真艫はまさに順風を意味します。そのことから正道とかきちんとしていることを意味するようになって正面とか真向かいを表すようになったと言われています。
ヨットでは「真艫走り」のことはランニングと言っています。この時はスピンネーカーと言う大きな帆をあげて、すごいスピードで走ります。ヨットレースで赤や緑や黄色のカラフルな帆をあげて何艇ものヨットが走っている姿は壮観です。でも乗っている方はスピンを上げる時は帆が大きいだけに神経を使います。またスピンを取り込む時も大忙しです。僕の船のスピンは緑色と黄色のスピンで結構かっこいいと思いますがもう3年近くあげたことがありません。スピンネーカーを張るにはヨットを良く知っている人が3人ぐらいいないと僕の腕ではちょっと恐いです。ディンギークラスの船には最近スピンを装備した船もありますが自分が学生時代乗っていたA級やスナイプクラスにはありませんでしたので一番慣れていないワークです。
今日はここまでです。それではまた。
今日は今年最後のヨット行事です。毎年この時期にレイアの納会を芋煮とBBQでやっています。今年は19人と例年の倍の人数です。我がレイアも来年10周年になるのでちょっと早めの御礼を兼ねて、レイアで遊んでいただいた皆様をお呼びしました。
セールをすべて降ろし、水洗いをして乾かしました。今日は風が強くてセールを干すのが一苦労でした。デッキも入念に水洗いし、フレッシュマリンを使い水垢もきれいに落としてもらいました。特にS木さんと息子のヒナ君が一生懸命やってくれました。セールは三Sさんが自慢の洗車機を使ってきれいにしてくれました。
女性陣も芋煮の材料のカットから煮炊きまで奮闘していただきました。K山さん、N谷さん、I谷さん、M崎さん、みぽりんさんありがとう。それから今回初参加してくれたケンちゃんのお友達のゆきちゃん、里芋の皮をむいてくれた直ちゃん、みっちゃん、ひとみちゃんありがとうございました。芋煮は昨年ほどではありませんでしたが、まぁ合格でした。ちょっと調味料が不足した中でよく味を調えたと思います。
BBQは昨日材料買出しで飛び回ったかいもありほとんど完食していただきました。焼きはホルモンだけで満足していた三Sさん、魚にうるさいM島さん、紳士的気遣いをしていたS田さん、しいたけを岐阜から調達してきてくれたS木さん父子、どうもご苦労様でした。
今回も何もしないで場を盛り上げていたT西さん、漬物や山桃、椎の実持参で初参加してくれたカー坊さん、雑用を一手に引き受けてくれる最年少のケンちゃん、急遽かけつけてくれたY田さんどうもお疲れ様でした。
準備には時間がかかるけど、食べ出したらあっという間でした。今年も振り返ってみれば、早いものです。一泊クルージングは日間賀島でした。キス釣り大会は参加できなかったけどキスはいっぱい釣りました。アジやタイがあまり釣れなかったのは残念でしたがトローリングで何回かブリの子供(イナダ)も釣れました。他にも大きなカレイを釣った人、佐久島でうなぎ事件を起こした人、船でよろけてキーボックスを壊した人、干潮で船を乗り上げ座礁させた人(あっこれは僕だ)、荒れる海で帰港時に船酔いしてしまった人、ジギング講習会に気合を入れて参加したけど全員ボウズだったこと、佐久島に入港できず急遽篠島に行ってエンジントラブルを起こしたこと、スナメリと戯れたこと、高校の同級生が静岡からみんなで遊びにきてくれたこと、まぁいろいろありましたが、全員無事で今年も楽しませていただきました。みなさんのおかげで楽しい航海ができました。レイア共々感謝しています。
今日の様子はホームページに早速アップしました。What’s New、写真集を見てやってください。10周年ケーキも見てやってください。
今年はこれでヨット編は終了です。また来年会えることを楽しみに冬眠に入ります。
でもブログはまだ残された年内書きますのでよろしくお願いします。
それではまた。