84. アトリエの巨匠に会いに行く (南川三治郎著 2009年6月)
今回は、「推理作家の家」にたびたび出てくるサンジローの代表作「アトリエの巨匠たち」(1980年1月)を紹介したかったのですが、1ページ目は、アーティストの自筆のサイン、活字体のフルネーム(アルファベット)、小さく撮影日付けと場所、のみでほぼ白紙です。2ページ目は、フルサイズのアーティストがいるアトリエの写真です。
一人のアーティストに対して、この2ページで85人の巨匠のアトリエの写真集です。この写真集は、芸術に対して自分がどれほどのものを持っているかによって、その一枚のアトリエの写真の価値が変わります。絵画や彫刻を自分で製作した経験があるとさらに深いものが見えてくる気がします。
紹介できる文章はないのですが、私の感想では、芸術家のアトリエの雰囲気とその作品の感じは、どこか似ています。サンジロウも秘密の発想工房を写真にすることに挑戦し、アーティストと奥さんは、アトリエが公開されることを拒みます。(見る人が見れば、多くの価値のある秘密が隠されてますから)
今回は、一部そのときのエピソードをふくめて書かれている、「アトリエの巨匠に会いに行く」を紹介します。
『 僕は1960年に大学を卒業後、出版社写真部を経てパリで1年間充電。持って行ったお金も使い果たし、無一文で帰国したのが25歳のとき。
幸いにも当時はパリ帰りというだけで仕事に恵まれた。70年、フリーランスになったとたん仕事が舞い込み、3ヵ月で当時のカメラの名機、6×6cm判の八セルブラッド500Cとリンホフ・テクニカ4×5in判一式が手に入ったのも懐かしい。
しかし、楽あれば苦あり。1974年のオイル・ショックで、これまで順調だったのが嘘みたいに、あっという間にほとんどの仕事を失ってしまった。茫然自失! なんだか今の社会状況と良く似ていますね。
ここで、転んでもただでは起きない、人呼んで ”起きあがりこぼしのサンジロー”。正直落ち込みながらも孤独に自分の心と向かい合い、悩みに悩んだ。
そして「地に足が着いた仕事をしなければ……」と、父が遺してくれた土地と母の援助で、好きだったアートの世界に目を向けて「20世紀を代表するアーティストの世界を覗いてみたい」と奮起。
野次馬精神、捨て身の覚悟で青春の思い出の地パリに旅立った。当時、日本の巨匠たちの姿を撮った先輩諸氏はいたが、こと海外のアーティストに焦点(フォーカス)を当てた写真家は見当たらなかった。
誰もこれまでやったことのない大きなテーマだ。針の穴をこじ開けてでも、コンタクトを取り付け、アーティストの屋根裏(アトリエ)に忍び込んで、羽目板を1枚外し、上から覗いて見たら、いったいどんな光景が見えるだろう……?
そこにはアーティスト、作品、アトリエ等々、創作の秘密工房が垣間見えるに違いない。これを1枚の写真にしたい! と、僕は決めた。無我夢中、手あたり次第のコネクションを使い、秘密の住所を探し当て、明けても暮れてもパリの屋根裏部屋に籠もり、タイプを叩いた。
1通の手紙を書くにも打ち直し打ち直しを繰り返して1日かかったことも。今のように便利なコンピューターはなし、携帯電話もなかった時代、時間は静かにゆっくりと過ぎていった。
いまから思うと、よくこんなことが出来たと思うくらいの超ヒドイ、片言の英語とカタコトのフランス語を ”心臓に毛を生やして” 駆使し、体当たりも体当たり、当たって砕けろ! の精神で、300人以上のアーティストの門を叩き続けた。
ミロ、ダリ、シャガール、キリコ、マリーニ、ムーア……。名だたる巨匠たちにとって僕は ”東洋からやってきた子供のような、どこの馬の骨とも分からないカメラマン”という印象だったようだ。
まるで、孫にでも接するような眼差しで僕を優しく包み込んでくれた。アーティストそれぞれと交わした手の温もりの余韻が今も残っている。(プロローグより) 』
『 当初、僕の心強い案内役となってくれたのが、パリの友人で画廊主のM氏だった。1975年、彼の紹介によって、マルク・シャガールと取材の約束を取り付けることができた。
ところが車の事故で僕は右足を骨折、左股関節を脱臼する大怪我を負ってしまい、9ヵ月の入院生活を送ることに。幸いシャガールとの約束は、延長してもらえた。
「もう杖なしでは立てない」と医者から宣告を受けながらも、必死のリハビリテーションを続けていた僕に、M氏から連絡が入った。「サンジロー、アーティストとの約束の有効期限は1年間というのが不文律だ」。
このチャンスを逃すわけにはいかなかった。僕は、痛む足を引きずりながら、翌1976年、シャガールのもとへ向かった。
南フランス観光の中心地ニースから約25キロ、小高い丘陵地帯にあるサン・ポール・ド・ヴァンス。街には緑があふれ、石造りの家々が並び、その軒下を石畳のデコボコした小道が続き、レストランやカフェの石壁に、蔦が絡まる風情はロマンチックなムードが漂う。
また、南国の花々があちらこちらで咲きみだれ、その強い香りに酔わされてしまうほどだ。この地方には、1920年代から多くの芸術家たちが移り住むようになって、気候温暖で親しみやすい街は一躍世界中にその名を知られるようになった。
シャガールもこの街を愛したひとりで、1949年に移り住み、52年には街はずれの広大な敷地を買い求め、「レ・コリーヌ」と名付けた山荘で静かな回想にひたっていた。
谷間の一本道を登り、バラのアーチも美しいファンダンシォン・マーグを左手に見てさらに登りつめること約5分、自動車がやっと1台通れる程の道のどんづまりが門だ。
インタ-ホンで案内乞うと頑丈な鉄の扉が自動的に開き、そこから玉砂利を踏みしめてさらに約5分、あたりはうっそうと繁った樹々に囲まれている。
丘を登り切ると石造りの邸宅が姿を現した。玄関にはシャガールのタブローと、珍しい自作の陶器類が飾ってあり、それをとり巻いて花の鉢植えが置かれていた。
ニコニコ笑顔で顔をクシャクシャにした、シャガールの第一声は、「Bonjour! Il fait beau, n'est-ce pas?」 (こんにちは! 良いお天気じゃないか?)
1つの仕事をやり遂げたシャガールのシワだらけの手は温かかった。巷間伝えられるシャガールの気むずかしげな人物像とは似ても似つかないほど親しげであった。
シャガールは先に立ってあちらこちらの部屋を自慢げに案内してくれた。そして、その部屋部屋には、いたる所が花、花、花で埋まっていた。
「ワシは小さい頃、貧しくて花を買うお金も時間もなかった。今は余裕が出来たので花の中で暮らしていたいんじゃ……」
しかし、僕が覗いてみたいと念願していたアトリエをシャガールは見せてくれようとはしなかった。「アトリエをぜひ拝見したいのですが」とお願いすると、
「アトリエは見せものじゃないよ。画家にとっては神聖な場所なんじゃ。それに、今は何も絵を描いとらんよ。入ってみたって見せるものは何もないんじゃよ」 とぶっきらぼうに答える。
僕が重ねて、「でも、何か制作なさっているでしょう」と、問うと、傍らに立ってジーッとやりとりを聞いているヴァヴァ夫人に目をやり、何か許しを乞いたそうな様子であった。
しかし、夫人の鋭い視線に射すくめられたシャガールは、心なしか淋しげに首をすくめるのであった。
あとで考えてみると、シャガールは、あれほど自由に憧れて故郷ヴィテブスク(現・ベラルーシ)を後にしたのに、何をするにもヴァヴァ夫人の監視の下で、晩年になっては不幸にも本当の自由なしに暮らしていたにちがいない。
僕が撮影している間も、2,3枚シャッターを切るたびにヴァヴァ夫人がしゃしゃり出てきて、「もう充分じゃなくって? モン・マリー(私の夫つまりシャガールのこと)は疲れているのよ」と、いう。
これには僕もほとほと参ってしまった。この時の取材に同行して下さったシャガール美術館(ニース)の当時の館長ピエール・プヴィール氏が見かねて、シャガールに何事か耳打ちすると、シャガールはゆっくりと腰をあげ、しっかりとした足どりで隣の小さな居間に移動した。
シャガールの家には未発表の大作が部屋ごとに掛けられており、まるで個人美術館の様相をていしている。この部屋には、故郷の風景を描いた200号大のタブローと、旧約聖書をテーマにした4曲の屏風が置かれていた。
アトリエの代りにここで写しなさいといわんばかりに、どっかと腰を下ろしたシャガールは、ヴァヴァ夫人に何事か言いつけ、夫人が部屋を1歩出たとたん、「パピエ……紙じゃ! 早く! なんでもいいから早く紙をよこしなさい!」
まわりを見渡しても、あいにく1枚の紙も見つからない。シャガールの語気に押されておそるおそるカメラバックの中から、シャガールに宛てた取材依頼状のコピーを差し出すと、依頼状の裏にボールペンで自画像をくるくると描き、「Marc Chagall 1976」とサインを入れ、紙をくしゃくしゃに丸めてポンと僕に投げ、
「ヴァヴァがうるさいのじゃよ。あのバアさんがいる限り、何ひとつワシの自由にはならん。ワシは、昔から写真が好きじゃったし、画家でメシが食えなかったら写真屋でもやろうとか思っとたくらいじゃ……。
君に協力してあげたい気持ちはあるんじゃが、何せあのヴァヴァが絶対にアトリエの中に入れちゃいかんというんじゃよ。それに、この ”ゴミ” も見つかっちゃいかん、早くカバンの中にしまうことじゃよ」
と、一抹の淋しげな表情を漂わせて早口に語るシャガールがそこに立っていた。 』 (マルク・シャガール (1887~1985) 1976年撮影)
『 アーティストの連絡先を知るためには、作品を扱っている画廊に聞くのが正攻法。このプロジェクトを企画した当初からジョアン・ミロの取材をしたいと思っていた僕は、パリ中の画廊にミロの連絡先を問い合わせた。
しかし、教えてもらえないまま数年がたってしまう。そもそも、ミロは取材を受けないことで知られていた。あきらめかけたとき、シュールレアリスムの巨匠アンドレ・マッソンの取材時に、ミロの住所がわかるチャンスがやってきた。
マッソンとミロは第二次世界大戦の時、一緒にニューヨークに亡命した仲だ。このことを何かで読んでいた僕は、取材の最後に、さりげなく 「ミロ先生はどちらにお住まいなんでしょうね?」 と近況を聞いてみた。
すると、「確かミロからのクリスマス・カードが届いていたんじゃないか」 とマッソン。住所を聞き出したい、とはやる気持ちを抑え、その場は引き下がった。
翌日、マダムに電話をして取材のお礼を伝えながら、「ミロ先生からのカードは何処からでしたか?」 とできるだけ何気なく尋ねてみると、カードを探してくれて 「スペインのマヨルカ島って消印にあるわね」 とだけ教えて下さった。
僕はすぐさまパリからマヨルカ島へ飛び、レンタカーを借りて、島中をくまなく探し続けた。 しかし、手がかりがつかめないまま一週間がすぎ、手持ちのお金が底をついてしまた。
あきらめきれずに帰りのフライト直前まであちらこちらを探しまわっていたときに、ふと立ち寄った雑貨屋で尋ねると 「ミロの家なら、すぐそこですよ」 との返事。
教えられたとおりにさくらんぼの花が咲き乱れるホワン・サリダキス通りを登りつめると、「SON ABRINES」 (避難場所) と書かれた銅板が僕の目を釘づけにした。
ミロの強烈な個性を表すかのようなシンボルマークの太陽も右上にある。まぎれもなくミロの家であった。やった‼
翌日、改めて取材に訪れた。南国の陽光に照らし出された白亜の殿堂は広くおおきかった。顔面一杯に笑みをたたえたミロが玄関に出迎えてくれ、「ずい分遠くから来たものだね。ま、自分の家だと思って好きなようにゆっくりしなさい」と抱きかかえてくれる。
私の持参した日本の雑誌を1ページずつ丁寧に繰りながら、「C'est bien! 」 (とても良いね)を繰り返し、日本に滞在した時の思い出などをおりまぜて語ってくれる。
ダーク・ブラウンのパンタロンにブルーのセーターを粋に着た小柄なミロの表情には、孫にでも接するような温かい優しさと、思いやりにあふれていた。
ミロは7年前にバルセロナとパリにあったアトリエを引き払って、この風向明媚な常夏の島に移り住み、1983年に亡くなるまで悠悠自適、制作三昧の余生を送っていた。
眼下に地中海を見下ろす白い波のような屋根をもつアトリエは、1956年、スペインの建築家ホセ・ルイ・セルトの設計によって建てられたとか……。
内部はまるで体育館のような広さで、足の踏み場もない程に作品が置いてあり、その中にはミロ自身が焼いたセラミック、彫刻などもあった。
壁際には制作中の大小のカンヴァスが立ち並び、床にはボール紙の上に描かれた、ところどころ切り取ったり、はり合わせたりした作品が敷きつめられてあった。
さらにアトリエの片隅には、壊れた椅子や廃品などが山のように積みあげてあり、まるで雑多なガラクタ倉庫の様相を呈している。
制作の様子を見たいと希望すると、すぐさまミロは、絵筆といおうか、ペンキ塗りの刷毛のようなものに黒の絵の具をたっぷりとしみ込ませ、床に置いたところどころ破れているボロ紙の上に、一気に象形文字に似た画面を創りあげ、さらにグワッシュを鋭いナイフを巧みに繰りながら、画面を作っていった。
エネルギッシュで情熱あふれる仕事ぶりは、とても84歳とは思えず、ひらめき動く魔術師のような指先から精気がほとばしり出るようで、その迫力に圧倒されてしまった。
そばにいた夫人が、「彼は夢中になると、ところかまわず絵の具を塗り、木片やら、段ボールやら、セメントの袋やら、手あたり次第にその上に描いてゆく……、まるで駄々っ子のようですよ。
写真を撮られることが大好きで、私が注意してないと、ついつい写真家の注文に応じて一生懸命サービスするでしょう、それで疲れ果ててしまう。困るのは私よ」
「私は、前もって頭で考えたような、知的なやりかたはしないんだ。 ちょっとした偶然から生まれる絵の具のしみや、したたりが、生命を持ってアニメートされ、思ってもみない形ができあがってゆく。
絵があるがままの状態でとどまっているよりも、それが萌芽として残り、そこから別のものに生まれ変わる種子をまきちらすべきだ。そして、なににも増して、”遊び” の精神が必要だ。大切なことは魂を自由に、素っ裸にしておくことだよ」
ミロは時々人に見られないよう、こっそりとアトリエの外に飛び出して海岸や道のあちこちに捨ててある、気に入った無用の品を拾い歩くという。
「自然や人間たちが見捨て、忘れ去り、放り出したもの、つまり廃品こそは無限の可能性を持っている。折れた釘、錆びた金物、煉瓦のかけら、コルクの栓など、普通の人には何でもないものが、私にとって ”何か” を起こさせるきっかけになる。創るべき作品を暗示するんだよ」
自作のデザインによるタビ(絨毯)が掛かる応接間で、孫を横に甲高い声で目をキラキラ輝かせ、作品、コレクションなどについて語ってくれたこの巨星は今はいない。2度にわたって来日の時に持ち帰った埴輪は一緒に旅立ったであろうか。 』 (ジョアン・ミロ Joan Miro (1893~1983) 1976年撮影)
『 アーティストにしてみれば、アトリエをさらすことは、自らの手の内をみせるのと同じ。そのうえ自宅のようなプライベートな面は、伏せておいたほうがミステリアスでいいと思っている節もある。
バルテェスもまた、「孤独の画家」 「ヴェールに包まれた画家」と評されたフランスの画家だ。スイス・アルプス山中で、作家としての執念と情熱を燃やしつくすかのように制作を続けていたバルテェスの住まいを、僕が世界に先駆けて独占取材できたのは、1993年のことだった。
神秘的で異次元の世界に誘うような、独特の白日夢の世界をカンヴァスに託す孤高の画家・バルテュス。本名はバルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ伯爵。
1930年代《ギターのレッスン》など、エロティックな少女像風景を描き、リアリズム復興の気運が高まったパリで、シュールレアリストたちの称賛を受け、不動のイメージを確立した。
バルテュスは、1752年に建てられた、スイス最大で現存最古の木造建築 ”グラン・シャレー” に、異郷にあって日本人の誇りと優雅さを持ち、常に選び抜かれた和服に身を包む節子夫人と、愛娘春美ちゃんと共に暮らしていた。
「1977年にローマから引っ越してきました。この家がまだホテルだった頃、たまたま主人とお茶を飲みに来て、ホテルのオーナーと出会い、四方山話をしている間に、このホテルの買い手を探してるということを聞くに及び、すぐさま全館を案内してもらいました。
そして、歩けばギシギシと音がするこの古い木の館に、主人も私もすっかり魅せられてしまい、とんとん拍子に話が決まってしまいました」 と、美しい顔を輝かす節子夫人。
さて、この撮影は2日間の約束だった。初日は節子夫人の手前もあってか、グラン・シャレー内での節子夫人とのツー・ショットや夕食時のスナップなど、渋々……。
といた体で撮影に協力してくれたが、あくる日に予定したアトリエでの撮影は頑として聞き入れられず、バルテュスは部屋に籠ったきりで、コトリとも音はしなかった。節子夫人に都合を聞いても顔を曇らせるばかり。
おそらくバルテュスは ”音無しの構え” で、別棟になってるアトリエで秘かに制作をしているに相違ない……と、僕は想像をたくましくし、いったん節子夫人に別れを告げてグラン・シャレーを辞し、車を村はずれに置いてアトリエに引き返し、外から中の様子をうかがった。
しかし、なんの物音もせず、扉も閉ったまま。意を決してアトリエの裏手に回り、明り取りの窓のひとつを押してみた。 ”なんと! まるで僕に開けられるのを待っていたかのようにスーと開いたではないか‼”
この光景こそ僕が狙っていた通りの構図「屋根裏(アトリエ)に忍び込んで、羽目板を1枚外し上から覗いてみたら、どんな光景が見えるだろう。そこはアーティストの情念と執念を燃やす行動の場であると同時に、思索の場であり、憩いの場であるはずだ」
このアトリエこそが、まさにバルテュスの芸術活動が凝縮されて存在する空間であった。 』 (バルテュス (Baluthus 1908~2001) 1993年撮影)
三治郎がアトリエの巨匠100人、推理作家50人に、取材を求める手紙を書き、電話で予約をとり、突然の訪問での、取材の会話とそれも、英語、フランス語で、三治郎は日本人、それもすべてが巨匠であることを、考えるとそのすごさが分かります。
本人は、謙遜して片言の英語とカタコトのフランス語と言っていますが、巨匠の趣味の話から、写真撮影と、巨匠の創作の核心部分を写真にしたり、聞きだしたりと、私たちも使える英語、役立つフランス語を学ぶ何かがあるのではないでしょうか。
巨匠たちとの時間は、三治郎にとっては、貴重な時間であったのは、無論のことですが、巨匠たちにとっても至福の時間であったことが、写真の笑顔であったり、貴重なコレクションのワインと料理をふるまったり、巨匠とする会話の中に読み取れます。
これらのアトリエの巨匠、ミステリー作家の作品についても、三治郎は熟知していて、話題が作品や巨匠たちの経歴、趣味と変化しても、対応し、三治郎の写真家としての力量を彼らは認めていたと、考えられます。
本来、三治郎の作品は写真集ですが、文章だけでも、切れがよく、躍動感があり、その場の情景と楽しさが、伝わてきます。これらの巨匠の半数は、その作品と三治郎の本でしか会うことはできません。 (第83回)