陸先生の形意拳講習会では、身体の使い方などについて太極拳と同じ点違う点など、かなり教えられることが多い。
練習しながらの注意などのちょこちょこっとした言葉が、大きな核心を示唆していることがあるのだ。
太極拳を学ぶ多くの人が、放松(ファンソン)というと”力を抜く”と誤解している。
「松=柔ではない。弾力が残ってるまま、が松」。
頂勁がないと、ただ潰れになってしまう。。。これは、もう、いつもワタシの日頃の指導者である三代一美先生が言ってることでもある。弾力(漲力とも言える)がないと身体の上下が繋がらず、足の裏で支えることができない。
また、”腰を使う”について、陸先生は「丹田はキープしたまま、腰は動く」。
”腰”は、腰椎の周り(ウエスト、と言ってる部分)であり、骨盤周りではないしお尻でもないし、ましてや肩ではない。
形意拳八式の動作の中で、右手を開いて打ち出すところを、ワタシの骨盤をグッと押さえて、その上の腰(部分)を右に動かすように手を添えてくれたが、かなり高度な動きでありましたよ(多分、腰の固い人にはムリムリ。。。)
「お腹に力を入れて、手は軽く,お腹の跳ね返りでバーンッ!と出す」(退歩勒拳。かな?多分))も凄かった。
そんなこんな話の中で、特に納得!そっか~!!と思ったのが
「太極拳は、ワタシ太極拳やってる。誰かそこに入ってきたらその人に対する(その人が触れるとその人は跳ばされる)。誰も入ってこなければワタシ自分がやってるだけ。形意拳は、ワタシそいつを殺す(!)。殺しに行く(!)。その違い」との言葉。
陸先生は、日本語ペラペラ(特に悪い言葉はすぐ覚えるし)だけど、こういう細かいニュアンスの内容になると、受け取る側が理解していないと????状態。
ざっくり言うと、太極拳は自分の方からやるじゃなくて、”なる”。
形意拳は、自分から相手に向かっていく。”やる”。ということでしょうか。
なるほど、これが太極拳の推手の極意か~!と思ったのでした。
推手の練習をしていると、相手を倒すことに意識が集中しがちだが、”相手はいてもいなくても”というのが太極拳なのね。
まさに 勤学苦練、継続練習 。。。。ほとんど禅の修行と同じであるよ。
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