「コルシア書店の仲間たち」、「ミラノ 霧の風景」、「ユルスナールの靴」、「時のかけらたち」・・・・。本棚に並ぶ須賀敦子の著作。
キラリと小さな光を放つ宝石のように、ひっそりと仄かに心の奥深くに仕舞われているその言葉や、そこに描かれる街や風景が、ふとした時に気持ちを鎮めてくれる。
2020年6月に発行された若松英輔による「霧の彼方」は、須賀敦子の世界をより深く理解する一助となる本であった。
帯に「信仰と書物。」とあるように、この本は、1947年にキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大学に進学し、信仰や祈りに日常的に接していた須賀敦子が、1960年に初めてミラノを訪れコルシア書店に深く関わることになったその足跡と翻訳家を経て著作家となっていく過程を辿りながら、須賀敦子の生きてきた時代と作品の評伝である。
コルシア書店で知り合った夫ペッピーノへの手紙の中に書かれたことについて、「彼女(須賀敦子)が重要だと考えたのは、何かをすること(doing)ではなく、その人間が存在すること(being)だった。これまでは、何をするべきかばかりを考え、彷徨い続けてきた。しかしこれからは、自分が「精一杯生き」うるところに身を置きたい、それが自分にとってはコルシア書店であることを、熱をこめて述べている。」とあるが、これを読んで我が意を得たり!!の気分。
これはワタシが最近太極拳を続ける中で感じたことに通じるものだ。
ワタシが考える太極拳運動は、ひとりで行う徒手の動きや形にしても相手と組んでの推手にしても、自分が「やる」じゃなく自然に「なる」もの。自然に「なる」まで練習を重ねて「やる」。多分、文章を書くという行為も、頭でアレコレ考えて作り上げるというよりも、心の奥から立ち上がってくる念いが言葉になり、それが文字となって小説や詩(翻訳もまたしかり)となって表現されるものなのだろう(宗教についても同様に)。
ある箇所では、身体と精神、神、たましいについての考察もある。
「身体」、「精神」、「たましい」それらが人間を構成している。身体は精神とたましいとの器である〜〜〜中略〜〜須賀がーあるいはユルスナールがー考える「たましい」は「精神」と同じではない。「精神」を司るのは人間だが、「たましい」の主は人間ではない。人間を超えた者、ユルスナールがいう「おん者Celui」、キリスト者たちが「神」と呼ぶ者にほかならない。」〜これも共感するところが大いにある。そうそう納得!!なのであった。
この本の中で、著者の若松英輔はこう書いている。「思ったことを書くのではない。書くことで「思い」の奥にある「念い」と呼ぶべきものを確かめようとしているようでもある。」
”思いの奥にあるもの”。。。。静かに深く、でも強く発する何か言葉では表現できないもの、存在を感じることはできるが、確かめることのできないもの。。。それを神というのか、たましいというのか、信念というのか、人それぞれ拠り所とするものは違うだろう。
須賀敦子が暮らしたミラノは、まだ第2次大戦の記憶が残る時代である、
ミラノはドイツの「占領」がもっとも長く続いた街のひとつで、”ロレート広場は、ファシスト政権によるパルチザンの処刑が行われた場所であり、その九ヶ月後にはパルチザンによって捕らえられ、処刑されたムッソリーニの遺体が吊された場所でもある”という記述がある。今日ではファッションの聖地として知られる街には、この時代の戦いと悲劇の記憶が見えないかたちで残っている。そんな時代に暮らした須賀敦子が見て、体験して、感じ、考えた様々なことが、彼女の著作に凝縮されているのだろう。
今年のコロナ第一波が広がっていたちょうどイースターの時、イタリアのテノール歌手アンドレア・ボッティチェッリが誰もいない大聖堂で「Ave Maria」と「Amazing Grace」を歌ったシーンが忘れられない。YOU TUBEで放映された映像には、人っ子ひとりいない世界中の大都市(ミラノ、ローマ、パリ、ロンドン、ワルシャワ、北京、N.Y・・・)の光景が次々と映し出されて、胸が痛くなった。その光景を思い出しながら、本棚に並ぶ須賀敦子の本をもう一度読み直してみようと思うのであった。
ザワザワと気持ちが波立つことの多いコロナの時代に、須賀敦子の美しい文章と、静かに人生を貫く”たましい”と強い信念の源を知ると、孤独であることの大切さ、自分自身を保つことの意味などを考えずにはいられない。
それにしても500ページ弱になる本を読み込むのは数年ぶり。しかも物語ではなく”評伝”である。文章を考えながら読み進むのは結構しんどかった💦💦頑張った!ワタシ\(^_^)/でありました。
若松英輔著・集英社刊
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