英霊を訪ねる旅、2回目の今回は沖縄の少女達を訪ねました。
我々、後世の日本人の為に命を捧げた少女達。
散華された少女達は敗戦後70年経った今もまだ少女のまま、その場所に居ます。
では皆さんも一緒に会いに行きましょう。
学徒看護隊
沖縄戦で学徒看護隊と言えばひめゆり部隊が有名ですね。
ひめゆり部隊
ひめゆり部隊は昭和20年3月23日に沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校から動員された少女達の部隊です。
この少女達は負傷兵などの看護をします。
この二校は沖縄でもエリートの学校でした。
まだ恋も知らなかったかもしれない15歳~17歳までの少女達です。
当時の国際法「ハーグ陸戦条約」では、例え敵軍であっても医療施設への攻撃はしてはなりません。
しかしアメリカ軍の攻撃は容赦なく医局にいた117名の少女達が犠牲になりました。
昭和20年6月18日
沖縄の日本軍が壊滅し、ひめゆり部隊の少女達に解散命令が出されました。
しかし、逃げ惑う少女達にアメリカ軍の銃撃は容赦なく襲いかかります。
解散後に107名が無惨に殺されました。
ひめゆり部隊240名のうち終戦時まで生き残ったのは僅かに14名でした。
この「ひめゆり部隊」は映画にもなり、今上陛下が皇太子時代に行幸された事もあり皆さんもご存知ですね。
また、エリート校だった事もあり沖縄でも県民が知るところです。
忘れられた少女達
しかし沖縄戦で学徒看護隊として、その身を捧げた少女はひめゆり部隊だけではありません。
地元沖縄県民にすら忘れられた少女達。
まだ恋も知らなかった少女達がひめゆり部隊の他にもいました。
沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒看護隊
県立首里高等女学校の瑞泉学徒看護隊
私立積徳高等女学校の積徳学徒看護隊
私立昭和高等女学校の梯梧学徒看護隊
県立第三高等女学校のなごらん学徒看護隊
県立宮古高等女学校の宮古高女学徒看護隊
県立八重山高等女学校の八重山高女学徒看護隊
県立八重山農学校女子の八重農学徒看護隊
ひめゆり部隊の他に八つの学徒看護隊がありました。
そして敗戦後、沖縄にすら忘れられていました。
白梅の塔
そして今回訪ねた少女達は白梅学徒看護隊です。
白梅学徒看護隊
そこはかつて沖縄県民にすら忘れられた場所。
その昔はまるで山に見える程の森のような所でした。しかし今は訪れる人もあり立派な慰霊碑も立ち随分と明るくなっています。
現在の白梅の塔
以前には訪れる人もなく石積みの様なものがあるだけでした。
そこには鉄の蓋があり、開けるとそれは真っ白な人の骨がありました。
例えば、顎辺りの骨や足の骨。
見事に真っ白な骨が、その狭い石積みの中に押し込められていたのです。
鉄の蓋には鍵は無かったのです。
今では立派な納骨堂もありますが、以前は唯の石積みに骨がギュウギュウに押し込められていたのです。
慰霊塔へと進む
この沖縄戦では病院棟というのがあったのです。
病院棟と言っても自然の洞穴を病院棟にしただけです。
そこで祖国を守る為に戦い負傷した我々の先輩の看護を一心不乱にしていた少女達。
例えば、頭が割れ、内臓が飛び出し。
例えば手や足がちぎれ。
もう、見るも無惨な姿になって担ぎ込まれた兵隊達の看護をしてくれた。
その白梅の少女達はもうあれから随分と時間が経ち、今では80を半ばにもなります。
昨日まで勉強をし、裁縫などをしていた手が今日は千切れた足を渡され「これを捨ててきなさい!」と言われる。
その千切れた足を半身を起こして兵隊さんが「おい!俺の足!どうするんだ!俺の足!」と必死に叫ばれる。
そのドバッと血が吹き出した足を持って壕の外へ捨てに行く。
銃弾が降り注ぐ中を血が吹き出た足を捨てに行く。
或いは壕の外へ水や薬を探しに出るのです。
そして千切れた手足を捨てに行く、水や薬を探しに行くその時に爆弾が飛んで来て吹き飛ばされる。
ふと見ると今そこにいた同級生の姿がなくなっている。
自分は爆風で飛ばされ、辛うじて生きていたけれど今そこにいた友達がいない。
友達の名前を叫びながら、そこにいたはずの場所に駆けつけると姿はない。
あるのは飛び散った肉片や岩にベチャっと張り付いた頭の皮膚で髪の毛がへばりついている。
献花をして
白梅学徒看護隊はひめゆり部隊より17日早い3月6日に結成されました。
人数は55名でした。
まだ歳は15歳~17歳の少女達です。
彼女達、白梅学徒看護隊は病院棟、病院壕と呼ばれる所で献身的に重傷者の看護をしました。
それは、負傷兵の看護はもちろん手術の手伝い、水汲みに飯炊き。
排泄物の処理に傷口に沸くウジの処置。
そして死体の埋葬から伝令に至ります。
4月下旬にもなると、負傷兵は増加し壕の入り口付近まで溢れかえっていました。
5月下旬にやむを得ず別の場所に分院壕を開設し収容仕切れない負傷兵をそこへ移しました。
しかし米軍が迫ります。
やむなく分院は閉鎖。
元の壕へと少女達を集合させます。
白梅の少女達は歩けない負傷兵に青酸カリなどを与え彼らの処置をしました。
まだ恋も知らない少女達。負傷兵の世話を献身的に行い、当然彼らと親しく話しもしていたはずです。
その負傷兵達が移動出来なければ青酸カリを渡すのです。
その時の心の痛みや苦しみは…いかばかりか。
6月4日いよいよ本院であった壕にも米軍の手がせまりました。
病院は約500名の重傷者の「処置」をします。
こうした酷い作業すら白梅の少女達がやっていたのです。
ここで白梅学徒看護隊も解散となります。
少女達は軍と行動を共にしたいと言いましたが、最早死の行軍となる兵士達は少女の同行を許しませんでした。
生き延びさせようとしたのです。
少女達は数人にずつに別れて逃げます。
しかし爆弾で8名が途中で死亡。
ようやく国吉で洞穴を見つけ隠れます。
そこが、今の「白梅の塔」がある壕です。

壕入り口
武器も何も持たず、命辛辛逃げて来た少女達に米軍は容赦なく襲いかかります。
6月21日
その壕の上に穴を開け、そこからガソリンを流し込み火を付けた。
生きたまま、少女達を焼き殺しました。
6名が無惨に殺されました。
翌22日
同じ方法で上の壕にも火をつけた。
2名が焼き殺されました。
その後日、重度の火傷で1名死亡しました。
彼女達は兵士でもありません。
民間人です。
それも武器すら持たず、まだ恋すら知らない。
結局白梅学徒看護隊55名中17名が死亡しました。
壕の奥へと
生き延びた少女達もあの壕の中に友達が倒れている、あの壕に同級生がいるとわかっていました。わかっていたが近付けなかった。
死んであそこに居るとわかっていたが近付けなかった。
早く戦争から抜け出したかった。
恋もしたい。
親が殺され生きていく糧も見つけなければならない。
敗戦後の日々、忙しくて忙しくて…
しかし心の隅に、あの壕に友達が今も居る。
私達の同級生が居る。
そしてやっと皆んなで話しあって勇気を出して壕に入ったのです。
すると体は溶けてなくなっていたけれど、そこにバラバラになった遺骨があって。
でも、落ちている文房具や僅かな欠片で、これは何々ちゃんね、これは何々さんと自分達には全部誰だか解るのです。
そしてどうにか連絡のつく親や親戚の方々に遺骨を引き取ってもらうのです。
しかし、我が子の死を信じず、死を受け入れられない親御さんもいて。
「あんたうちの娘を知ってるだろ?うちの娘はこんなとこで殺されたりしないよ!あのサトウキビ畑を抜けて生き延びてヤンバル辺りで結婚して子供もいるんだよ!生き延びてるに決まってる」
或いは
「私の娘は泳ぎが得意だから泳いで泳いで、黒島か石垣辺りに逃げて、そこの人と結婚して子供もいて綺麗な服も着て幸せに暮らしてるよ!」
と、言って死を信じない。
だからウチは引き取らない、墓にも入れないと頑なに仰る。
それで石積みを作って、でも小さくて困ったなぁと思いながら、皆んな泣きながらその石積みに遺骨を押し込めたのです。
そして蓋をする時には皆んなで話して鍵は付けなかったのです。
やがて夜になり人気がなくなれば、あれ程に信じずにいたお父さんやお母さんが、本当は娘の死を、無惨な死を知っていて。
そして夜にここへ来て娘の名前を呼びながら愛おしくご遺骨を触ったり撫でたりなさる。
だから鍵は付けなかったのです。
壕の中で
この戦いで散華された方々は一人として私利私欲で散華されたのではありません。
日本人の哲学を貫いたのです。
「わたくしを脱し、他者の為に生きる」
その様な生き方をされたのです。
僅か15歳から17歳の少女達もその様な生き方をされたのです。
そして後世我々が生きています。
この白梅の壕には未だ引き取り手のない御霊が、少女が二人居ます。
お下げ髪の少女とオカッパの少女です。
このお二人の少女は親御さん兄弟、親類の方も皆亡くなっておられ御霊の引き取り手がありません。
ですから女性は壕に入る際には充分ご注意下さい。まだ恋も知らない少女達ですから少し女性を拒むところがあり、壕に入る女性が急に気分が悪くなったり、或いは全く入れなかったりします。

ですから壕のすぐ入り口左手にお供えがあります。
中に入れなければ無理に入らず、入り口でお供えをしてご挨拶して下さい。
同行の女性は実は中に入れませんでした。
気分が悪くなったりはしてませんが、何故か中に入れませんでした。
男性は大丈夫ですから中に入り、そこに少女がおられますから壁や床の土を撫でたりして話しかけて下さい。
そして、白梅の塔への入り口付近のベンチに座り吹く風を感じて下さい。
そこへ沖縄で散華された方々、その白梅の少女達がお出になられて我々の体に触れられるのです。
そして「俺が守った未来が、私達が守った日本人がいる」と確かめられるのです。
そしてそうやって、後世我々の為に命を捧げてくれた少女達は少し報われるのです。
今あなたが、存在し幸せに暮らしているのは
少女達が散華されたからだという事をゆめお忘れなきように。
英霊を訪ねて~3
我々、後世の日本人の為に命を捧げた少女達。
散華された少女達は敗戦後70年経った今もまだ少女のまま、その場所に居ます。
では皆さんも一緒に会いに行きましょう。
学徒看護隊
沖縄戦で学徒看護隊と言えばひめゆり部隊が有名ですね。

ひめゆり部隊は昭和20年3月23日に沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校から動員された少女達の部隊です。
この少女達は負傷兵などの看護をします。
この二校は沖縄でもエリートの学校でした。
まだ恋も知らなかったかもしれない15歳~17歳までの少女達です。
当時の国際法「ハーグ陸戦条約」では、例え敵軍であっても医療施設への攻撃はしてはなりません。
しかしアメリカ軍の攻撃は容赦なく医局にいた117名の少女達が犠牲になりました。
昭和20年6月18日
沖縄の日本軍が壊滅し、ひめゆり部隊の少女達に解散命令が出されました。
しかし、逃げ惑う少女達にアメリカ軍の銃撃は容赦なく襲いかかります。
解散後に107名が無惨に殺されました。
ひめゆり部隊240名のうち終戦時まで生き残ったのは僅かに14名でした。
この「ひめゆり部隊」は映画にもなり、今上陛下が皇太子時代に行幸された事もあり皆さんもご存知ですね。
また、エリート校だった事もあり沖縄でも県民が知るところです。
忘れられた少女達
しかし沖縄戦で学徒看護隊として、その身を捧げた少女はひめゆり部隊だけではありません。
地元沖縄県民にすら忘れられた少女達。
まだ恋も知らなかった少女達がひめゆり部隊の他にもいました。
沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒看護隊
県立首里高等女学校の瑞泉学徒看護隊
私立積徳高等女学校の積徳学徒看護隊
私立昭和高等女学校の梯梧学徒看護隊
県立第三高等女学校のなごらん学徒看護隊
県立宮古高等女学校の宮古高女学徒看護隊
県立八重山高等女学校の八重山高女学徒看護隊
県立八重山農学校女子の八重農学徒看護隊
ひめゆり部隊の他に八つの学徒看護隊がありました。
そして敗戦後、沖縄にすら忘れられていました。
白梅の塔
そして今回訪ねた少女達は白梅学徒看護隊です。

そこはかつて沖縄県民にすら忘れられた場所。
その昔はまるで山に見える程の森のような所でした。しかし今は訪れる人もあり立派な慰霊碑も立ち随分と明るくなっています。

以前には訪れる人もなく石積みの様なものがあるだけでした。
そこには鉄の蓋があり、開けるとそれは真っ白な人の骨がありました。
例えば、顎辺りの骨や足の骨。
見事に真っ白な骨が、その狭い石積みの中に押し込められていたのです。
鉄の蓋には鍵は無かったのです。
今では立派な納骨堂もありますが、以前は唯の石積みに骨がギュウギュウに押し込められていたのです。

この沖縄戦では病院棟というのがあったのです。
病院棟と言っても自然の洞穴を病院棟にしただけです。
そこで祖国を守る為に戦い負傷した我々の先輩の看護を一心不乱にしていた少女達。
例えば、頭が割れ、内臓が飛び出し。
例えば手や足がちぎれ。
もう、見るも無惨な姿になって担ぎ込まれた兵隊達の看護をしてくれた。
その白梅の少女達はもうあれから随分と時間が経ち、今では80を半ばにもなります。
昨日まで勉強をし、裁縫などをしていた手が今日は千切れた足を渡され「これを捨ててきなさい!」と言われる。
その千切れた足を半身を起こして兵隊さんが「おい!俺の足!どうするんだ!俺の足!」と必死に叫ばれる。
そのドバッと血が吹き出した足を持って壕の外へ捨てに行く。
銃弾が降り注ぐ中を血が吹き出た足を捨てに行く。
或いは壕の外へ水や薬を探しに出るのです。
そして千切れた手足を捨てに行く、水や薬を探しに行くその時に爆弾が飛んで来て吹き飛ばされる。
ふと見ると今そこにいた同級生の姿がなくなっている。
自分は爆風で飛ばされ、辛うじて生きていたけれど今そこにいた友達がいない。
友達の名前を叫びながら、そこにいたはずの場所に駆けつけると姿はない。
あるのは飛び散った肉片や岩にベチャっと張り付いた頭の皮膚で髪の毛がへばりついている。

白梅学徒看護隊はひめゆり部隊より17日早い3月6日に結成されました。
人数は55名でした。
まだ歳は15歳~17歳の少女達です。
彼女達、白梅学徒看護隊は病院棟、病院壕と呼ばれる所で献身的に重傷者の看護をしました。
それは、負傷兵の看護はもちろん手術の手伝い、水汲みに飯炊き。
排泄物の処理に傷口に沸くウジの処置。
そして死体の埋葬から伝令に至ります。
4月下旬にもなると、負傷兵は増加し壕の入り口付近まで溢れかえっていました。
5月下旬にやむを得ず別の場所に分院壕を開設し収容仕切れない負傷兵をそこへ移しました。
しかし米軍が迫ります。
やむなく分院は閉鎖。
元の壕へと少女達を集合させます。
白梅の少女達は歩けない負傷兵に青酸カリなどを与え彼らの処置をしました。
まだ恋も知らない少女達。負傷兵の世話を献身的に行い、当然彼らと親しく話しもしていたはずです。
その負傷兵達が移動出来なければ青酸カリを渡すのです。
その時の心の痛みや苦しみは…いかばかりか。
6月4日いよいよ本院であった壕にも米軍の手がせまりました。
病院は約500名の重傷者の「処置」をします。
こうした酷い作業すら白梅の少女達がやっていたのです。
ここで白梅学徒看護隊も解散となります。
少女達は軍と行動を共にしたいと言いましたが、最早死の行軍となる兵士達は少女の同行を許しませんでした。
生き延びさせようとしたのです。
少女達は数人にずつに別れて逃げます。
しかし爆弾で8名が途中で死亡。
ようやく国吉で洞穴を見つけ隠れます。
そこが、今の「白梅の塔」がある壕です。


武器も何も持たず、命辛辛逃げて来た少女達に米軍は容赦なく襲いかかります。
6月21日
その壕の上に穴を開け、そこからガソリンを流し込み火を付けた。
生きたまま、少女達を焼き殺しました。
6名が無惨に殺されました。
翌22日
同じ方法で上の壕にも火をつけた。
2名が焼き殺されました。
その後日、重度の火傷で1名死亡しました。
彼女達は兵士でもありません。
民間人です。
それも武器すら持たず、まだ恋すら知らない。
結局白梅学徒看護隊55名中17名が死亡しました。

生き延びた少女達もあの壕の中に友達が倒れている、あの壕に同級生がいるとわかっていました。わかっていたが近付けなかった。
死んであそこに居るとわかっていたが近付けなかった。
早く戦争から抜け出したかった。
恋もしたい。
親が殺され生きていく糧も見つけなければならない。
敗戦後の日々、忙しくて忙しくて…
しかし心の隅に、あの壕に友達が今も居る。
私達の同級生が居る。
そしてやっと皆んなで話しあって勇気を出して壕に入ったのです。
すると体は溶けてなくなっていたけれど、そこにバラバラになった遺骨があって。
でも、落ちている文房具や僅かな欠片で、これは何々ちゃんね、これは何々さんと自分達には全部誰だか解るのです。
そしてどうにか連絡のつく親や親戚の方々に遺骨を引き取ってもらうのです。
しかし、我が子の死を信じず、死を受け入れられない親御さんもいて。
「あんたうちの娘を知ってるだろ?うちの娘はこんなとこで殺されたりしないよ!あのサトウキビ畑を抜けて生き延びてヤンバル辺りで結婚して子供もいるんだよ!生き延びてるに決まってる」
或いは
「私の娘は泳ぎが得意だから泳いで泳いで、黒島か石垣辺りに逃げて、そこの人と結婚して子供もいて綺麗な服も着て幸せに暮らしてるよ!」
と、言って死を信じない。
だからウチは引き取らない、墓にも入れないと頑なに仰る。
それで石積みを作って、でも小さくて困ったなぁと思いながら、皆んな泣きながらその石積みに遺骨を押し込めたのです。
そして蓋をする時には皆んなで話して鍵は付けなかったのです。
やがて夜になり人気がなくなれば、あれ程に信じずにいたお父さんやお母さんが、本当は娘の死を、無惨な死を知っていて。
そして夜にここへ来て娘の名前を呼びながら愛おしくご遺骨を触ったり撫でたりなさる。
だから鍵は付けなかったのです。

この戦いで散華された方々は一人として私利私欲で散華されたのではありません。
日本人の哲学を貫いたのです。
「わたくしを脱し、他者の為に生きる」
その様な生き方をされたのです。
僅か15歳から17歳の少女達もその様な生き方をされたのです。
そして後世我々が生きています。
この白梅の壕には未だ引き取り手のない御霊が、少女が二人居ます。
お下げ髪の少女とオカッパの少女です。
このお二人の少女は親御さん兄弟、親類の方も皆亡くなっておられ御霊の引き取り手がありません。
ですから女性は壕に入る際には充分ご注意下さい。まだ恋も知らない少女達ですから少し女性を拒むところがあり、壕に入る女性が急に気分が悪くなったり、或いは全く入れなかったりします。

ですから壕のすぐ入り口左手にお供えがあります。
中に入れなければ無理に入らず、入り口でお供えをしてご挨拶して下さい。
同行の女性は実は中に入れませんでした。
気分が悪くなったりはしてませんが、何故か中に入れませんでした。
男性は大丈夫ですから中に入り、そこに少女がおられますから壁や床の土を撫でたりして話しかけて下さい。
そして、白梅の塔への入り口付近のベンチに座り吹く風を感じて下さい。
そこへ沖縄で散華された方々、その白梅の少女達がお出になられて我々の体に触れられるのです。
そして「俺が守った未来が、私達が守った日本人がいる」と確かめられるのです。
そしてそうやって、後世我々の為に命を捧げてくれた少女達は少し報われるのです。
今あなたが、存在し幸せに暮らしているのは
少女達が散華されたからだという事をゆめお忘れなきように。
英霊を訪ねて~3