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大日本帝国の国家戦略~2

2016-01-17 20:01:21 | 大日本帝国
さて大日本帝国の国家戦略を見るには先ず、明治維新の改革を知らねばなりません。

どの様な改革を行ったのでしょうか。

優先課題

「富国強兵」というプロジェクトにおいて明治新政府が真っ先にやらねばならなかったのは中央集権体制の確立です。

現代、我々にとって統一国家である日本。
その中で暮らす我々にとって中央政府が政治を執り行うと言うのは当然に思います。
しかし、それは明治以降の事です。

江戸時代の日本は大名が領地を治め、幕府はその長という事に過ぎません。
この体制は「王政復古」の後も変わらず、藩主は相変わらず自分の領地を治め徴税権や立法権、独自の兵を持っていました。

これは新政府にとって不都合極まりない。

藩は独自の権限を持っていたために新政府の統制が完全には及びません。

これでは何か政策を決めようにも、いちいち各藩の意見調整を経なければならず時間がかかってしまいます。

調整に失敗すれば政府に反旗を翻す藩主も出てくる恐れがあります。

全国に300を超える藩があり、その大きさもマチマチ。更に入り組んでいたために国家として統一した税制を敷く事も困難でした。
各藩が独自の軍隊を持っていては統一した国軍を持つ事も困難です。

明治新政府にとって藩を解体し中央政府へ権限と財源を一元化する中央集権体制への移行は何を置いても実現しなければならない課題でした。

しかし、藩というものは江戸時代より270年近く続いて来た制度です。

藩解体となれば、藩主や武士が特権を失う。
強引にやれば、大きな反発を食らいます。

そこで新政府は慎重にこの大事業に取り掛かります。

新政府の指導者は、先ず自分達の出身母体であった薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の四つから消滅させます。

薩長土肥の4藩は諸藩の中でも特に有力であり、維新の先頭に立って来た倒幕の功労者です。
この功労者達が進んで解体を受け入れたなら、他の諸藩も異議を唱え難くなります。

薩摩の大久保利通長州の木戸孝允らは戊辰戦争を共に戦った土佐藩や肥前藩に働きかけ、薩長土肥の4藩連盟で明治2年(1869)版籍奉還(はんせきほうかん)の上表を朝廷に提出させます。

版籍奉還とは、藩が持っていた領地や領民を朝廷にお返しするというものです。
各藩の藩主は天皇陛下から大御宝である領地や領民をお預かりしていますから、それを天皇陛下に返還するという事になります。

維新をリードして来た4藩が版籍奉還をするのだから、他の藩も続かない訳にはいきません。

以来、次々と全国の諸藩が版籍奉還を行います。

国土と国民は朝廷のもとに一元化される事になりました。

廃藩置県改革

版籍奉還を成し遂げた新政府は、いよいよ中央集権体制への最終段階に入ります。

明治維新最大の改革
「廃藩置県」です。

廃藩置県とは藩を無くし、代りに県を作ったのですけれども当然ながら単に名称を変えただけではありません。

版籍奉還後も藩主は「知藩事」となり、引き続き藩の支配にありました。
その権限を廃し、藩を地方行政機関に置き換えるという大改革だったのです。

当然ながら、これには強い反発が予想されました。

そこいで新政府は薩長土の三藩から総勢約1万の兵を京都に送り、武力を背景に明治4年7月14日廃藩置県の勅令が発せられました。

この新政府のやり方に大きく反発する藩もなく、廃藩置県はスムーズに進行しました。

遂に日本は強力な中央集権国家に生まれ変わったのです。

中央集権国家と言うと「独裁国家」のようなイメージもあり、現代ではネガティヴに語られることもあります。

しかし19世紀の世界を見れば日本が中央集権国家に生まれ変わったのは正解であったと言えます。

もし江戸時代の様な「封建制度」ならば、他のアジア諸国と同じように欧米から虫食い状態にされていたでしょう。

当時のアジア諸国は中央集権制度を持っておらず、群雄割拠状態。
アジア諸国は欧米列強に蹂躙されていました。

明治政府は強力な中央集権体制のもと、次々と政策や制度の改革を実行していくことが出来ました。

富国強兵実現の大きな礎となった「版籍奉還」「廃藩置県」は、その後の国家の命運を左右する程の大英断であったと言えるのです。

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